唐辛子姫はもういません

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 時計の針が午後一時を回った。片瀬愛梨(かたせ・あいり)は自席を離れ、一直線に通用口を目指す。 「お昼休憩に入ります」  上司が「ああ、そう」とつぶやいたときにはもう、愛梨は紙袋を抱えて、JR高田馬場駅前の早稲田通りを早大方面へと歩きだしていた。  愛梨の勤め先は小さな旅行代理店だ。仕事は接客や営業ではなく事務全般。週末は山のような伝票と格闘しなければならない。午前九時の始業から火の玉となって働き続けると、昼時にはくたくたになる。金曜日のランチには、午後の業務を乗り切るために特別なエネルギーが必要だった。  愛梨は、徒歩数分で目当ての店に到着した。こじんまりとした二階建ての木造家屋は古色蒼然としていて、大きな銀杏の古木に寄り添うように佇んでいる。店の壁面は好き勝手に伸びた(つた)で一杯だ。壁の中央にある木製のドアが蔦を押しのけるように開け放たれ、中から香ばしいスパイスの匂いが漂ってきて愛莉の鼻腔をくすぐった。 「いらっしゃいませェ」  ドアベルがチリンと鳴ると、食器を片付けていたアルバイトのサーマが入口を見やり、笑顔で愛梨を出迎えた。店長のアマンも愛梨に気づき、カウンターの向こうで表情を引き締める。 「Aman’s Curry(アマンズ・カリー)」は客席がカウンターのみで、十人も座れば満席になる小さなお店だ。アマンが一人で料理を作るので、サーマに給仕を手伝ってもらっても、この大きさが限界なのだという。以前はレトロな雰囲気が売りの純喫茶だったが、高齢のマスターが引退して空き店舗になるところをアマンが引き継ぎ、カレー屋を始めた。もう二年前になる。  愛梨は、迷うことなく入口から最も遠いカウンターの隅に座る。いつからかここが愛梨の専用席になった。通常であれば客はまばらな時間なのに、今日は珍しく運の悪い一見の客で満席だ。 ----気の毒に。  愛梨は内心でつぶやいたが、一見の客に遠慮をするつもりはない。 「アマンさん、いつものお願いします」  愛梨はゴム紐で髪を後ろで束ね、シャツの袖をまくり上げて臨戦態勢に入った。アマンが激しく首を振りながら愛梨の前に立つ。 「愛梨さん、お勧めのカレー、他にもあるヨ。是非、食べてほしいです……。羊、魚、ヒヨコ豆、今日はナマズもあるのデス……」 「それ、辛いですか?」 「えっ?」 「そのお勧めは、辛いのかって聞いているの」  アマンの喉がごくりと鳴る。「食材のうま味を味わってもらいたいので、どちらかというとマイルドね……」  愛梨はふんと鼻を鳴らす。「話にならない……アマンさん、お願いしていたスコーピオンは手に入りましたか? キャロライナ・リーパーは?」  アマンの顔色がサッと蒼くなる。「スコーピオンも、キャロライナ・リーパーも、防護服を着ないと料理できないヨ。許してくださいヨ、愛梨さん」 「防護服なら買ってあげます」 「いりませんヨ、お店、クーラーない。夏だし、暑いし」アマンはほとんど涙声だった。
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