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月曜日は肌寒く、本格的な梅雨入りを思わせる曇天だった。愛理が務める旅行代理店では、眠たげな顔の同僚たちが週末の余韻から覚めようともがいている。愛梨も仕事になかなか集中できず、簡単なメールの返信を何度も書き直していた。
社会常識として、ご馳走になったお礼はするべきだよね。私は、仕入れのお手伝いを結局、何もしなかった。このままでは食い逃げ同然だもの。でも、何がいいのだろう。相手はプロの料理人だ。食べ物はまずいな。サーマちゃんに相談しようかな。いやいや、期待を持たせるようなことをするべきではないかもしれない。そもそも、どんな顔をしてアマンさんに会えばいいのかわからない……。
婚約者を事故で失って途方に暮れていると打ち明けたときのアマンの悲し気な表情が頭を離れない。愛梨は、アマンを傷つけてしまった自分にいら立つ一方で、勝手に思いを寄せて愛梨の心をかき乱すアマンにも腹が立った。そして、愛梨を元気づけようと気を使い、知恵を絞ってくれたアマンに腹を立てている自分の狭小さが情けなくなり、ため息をつく。愛梨はかれこれ一日以上、こんな堂々巡りを続けていた。
----気持ちを切り替えなくちゃ。
愛梨は廊下に出て、自動販売機でブラックコーヒーを買う。缶コーヒーで堂々巡りが断ち切れるはずもないのだが、ほかに気分転換の方法を思いつかなかった。
……こっちだ……こっち
通用口から吹き込んだ風が誰かの声を運んできて愛梨の耳をかすめた。大人のようであり子供のようでもある性別の分からない不思議な声だ。
……愛梨
「……えっ、私?」
……早く、こっちだ……早く
愛梨は反射的に通用口を飛び出し、遠ざかる声を追いかける。
……電車、乗って……サーマ、来る
「ちょっと待って、あなたは誰なの。どこにいるの!」愛梨は尋ねたが、返事はない。JR高田馬場駅に到着すると、サーマが改札の前で飛び跳ねながら、両手をぶんぶんと振っていた。謎の声が指摘したとおりだ。愛梨は驚いた。
「愛梨さん!」
「サーマちゃん、どうしてここに……」
「こっちの台詞ですヨ。変な声に愛梨さんが駅で待っているって言われて」
「私は、サーマちゃんが待っているからって」
霧のような雨がふわりと二人の頭上に舞い降りる。
……電車、乗って、早く
愛梨とサーマは顔を見合わせる。
「……聞こえたよね」
「聞こえました……」
正体不明の声がいら立つ。
……早く! 急げ! 一番線だ! 日暮里に向かって!
「ひい!」愛梨とサーマは命じられるまま切符を買い、JRに飛び乗った。
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