唐辛子姫はもういません

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「仕方ないですね。では、いつものチキンカレーを。辛くしてくれるなら羊でも豆でもナマズでもいいですけど」 「……チキンでいいんじゃないの。激辛じゃ味わからんし……」アマンは観念してキッチンに引っ込んだ。サーマが戸棚を開けて素早く「準備」に入る。  愛梨とアマンの会話を聞いていたカウンターの客がざわつき始めた。 「ねえ、ヒデくん、あのお客さん、ひょっとして……」流行りのワンピースを着た女が、体格のよい隣の男に耳打ちする。胸元にWの文字が白く印字されたえんじ色のTシャツははちきれんばかりだ。 「ひょっとして、何が……」ヒデくんと呼ばれた男は、食後のラッシーを飲むのに忙しく、生返事をした。上腕二頭筋が盛り上がった太い腕を曲げ、グラスをグローブ大の手のひらに包み込むようにして、ちゅうちゅうとストローを吸う。 「都市伝説かと思っていたわ。『唐辛子姫』の噂、聞いたことない?」 「いや、ないな。ユイちゃん、ラッシーを残すならもらうけど」一滴も残すまいと、ヒデがストローを吸う音が大きくなる。 「私はゆっくり飲んでいるの。そんなことより、唐辛子姫ってね、水で100万倍薄めないと辛みが消えないチリペッパー入りの激辛カレーをけろっと食べるんだって。さっきの会話からすると、あの人が……」  ヒデはラッシーを飲み終え、ようやくユイの視線の先をちらりと見る。「あのお姉さんが伝説の女……」  地味な事務員用の制服を着たOLだ。年のころは三十前後だろうか。顔立ちは整っているが、ほっそりしていて、どこかはかなげで、菜食主義者のような雰囲気も漂っている。 「これ、どうぞ」  ヒデが困惑していると、サーマがカウンターにことりとゴーグルを置いた。 「何、これ?」ヒデが芋虫のような指でゴーグルをつまみ上げる。 「命ヲ、守る、行動ヲ、取って、ください」サーマの目がゴーグルの後ろでにやりとした。鼻から下はしっかりとバンダナで覆ってある。 「あっ、痛っ!」  ヒデとユイの隣に座っているサラリーマン風の男が突然、目頭を押さえてカウンターに突っ伏した。そのさらに隣で、別のサラリーマンと学生風の若い男が咳き込む。 「いやだあ、何これえ」ユイがぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。ヒデは大いにうろたえる。やばいぞ、これ……。ヒデは慌ててユイにゴーグル―を着けさせ、その口元をハンカチで覆う。自分もゴーグルをつけようとした瞬間、目玉を激痛が襲った。 「ぐあ!」  アマンが料理を手にキッチンから出てくる姿が、涙でにじむヒデの視界に入る。アマンの頭はガスマスクですっぽりと覆われている。ヒデの目玉の痛みがいよいよ激しくなってきた。 「お待たせしました……」 「これよ、これ」。愛梨は紙エプロンを着けながら舌なめずりした。
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