唐辛子姫はもういません

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 ステンレス製のカレー皿で溶岩のようなどろりとした物体がくつくつと音を立てている。チキンカレーは、アマンの店の定番だ。ターメリックとクミンホール、おろしニンニク、おろしショウガ、タマネギのみじん切り、細かく切ったトマトをフライパンでほどよく炒めてスパイスの香りを引き出し、さらにトマトピューレと水を加えて煮込む。水分がなくなってきたら、事前に圧力鍋で柔らかくしておいたチキンを入れ、フェネグリークの葉を乾燥させたカスリメティと塩で味を調える。客の好みに応じてレッドチリパウダーで辛みを調整して完成だ。愛梨のカレーが猛烈な刺激臭を放っているのは、唐辛子界で長く「最辛」の地位に君臨してきたブート・ジェロキアのすりおろしをレッドチリパウダーの代わりに大量に投入するためだ。  ガスマスク姿のアマンが見守る中、愛梨がスプーンでカレーを口に運び、ごくりと飲み込んだ。 ----来た!  愛梨の体内で、TRPV1(トリップヴイワン)と呼ばれるたんぱく質が激しく動き出す。感覚神経にあるTRPV1が唐辛子に含まれるカプサイシンに反応して活性化すると、脳が「命が危険にさらされている」と錯覚し、体が激しい痛みや熱を発する。愛梨の口は火だるまとなり、全身から汗が吹き出した。頭から滝のように流れる汗が、涙や鼻水と混ざってカウンターにぼとぼとと落ちる。 「む、うむぅ」愛梨のスプーンは止まらない。目を大きく見開き、取り憑かれたように真っ赤な物体を体内に流し込む。 「お会計!」「こっちも、早く!」  カウンターの客が入口に殺到した。「外に一列にお並びください!」サーマがむせび泣く客を誘導して外に整列させ、ひょいひょいと現金を受け取る。 「こちらは千円になります」「そちらはラッシーのセットで千二百円ネ。お会計一緒? では二千四百円。ありがとうございました」 「これ、どれくらいで治まるの?」ヒデが鼻をかみながらサーマに尋ねる。 「水で顔をよく洗ってくださいネ。鼻うがいもいいですヨ。またのご来店をお待ちしています。でも、金曜日の午後一時は危険ネ」サーマがからかうように言った。 「ちょっと、あんた、笑い事じゃないでしょ! 張り紙くらいしておきなさいよ。化け物がいますとかなんとか!」怒りがおまらないユイが、咳き込みながらサーマに抗議した。 「ユイ、化け物はいくらなんでもさ。好みは人それぞれなんだから……」  ヒデがやんわりたしなめると、ユイが充血した目を見開いた。「何よ、私がこんなに苦しんでいるのに唐辛子姫をかばうわけ! 信じられない!」 「いや、そういうわけじゃないけどさ……」ヒデが巨体を揺らしながら、すたすたと立ち去るユイを追いかける。 「ヒデくん、また食べに来てくださいね!」サーマが背後から声をかける。ヒデは、ユイの機嫌を取りながら、こくこくと肯いた。  サーマはゴーグルを装着し直して何事もなかったように店に戻る。「店長、皆さん、お帰りネ。ジョシダイセイに張り紙しておけって言われました。どーします?」 「ハリガミ……?」ガスマスク姿でアマンが聞き返した。
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