唐辛子姫はもういません

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「あれじゃないですか、触るな危険とか、愛梨さんが店にいるときは、そういう紙を入口に貼っておけってことじゃないですかネ」 「私は有害物質ってわけ?」最後のカレーを口に運びながら愛梨がつぶやく。 「愛梨さん、ユウガイじゃないよ。サーマ、失礼なこというなヨ」アマンが食器を片付けながら慌ててフォローした。 ----勝った……。  愛梨は、アマンとサーマの会話を遠くに聞きながら、勝利の喜びに浸っていた。さっきまでの激しい痛みや熱は噓のように静まり、体中が得も言われぬ快感に包まれる。これはアマンの受け売りだが、命の危険を感じた脳がβ-エンドロフィンという物質を分泌すると、痛みが和らぎ、強い快感がもたらされるのだそうだ。それは、不可能と思われていたミッションを成し遂げた時に得られる達成感、例えば、難攻不落の城を落とした戦国武将が感じたであろう満足感に似ているのかもしれない。愛梨は、この一瞬のために定期的に激辛カレーがほしくなる。 「店長、トイレお借りします。食後のラッシーをお願いしますね」 「かしこまりました」  愛梨は、持参した紙袋を抱えてトイレにこもる。汗だくになったシャツと下着を脱ぎ、汗拭きシートで全身を丁寧に拭った。汗が引いたところで、紙袋の中から着替えを取り出して身に着ける。カレー屋のトイレで裸になることへの抵抗がなくなるのは、β-エンドロフィンの副作用かもしれない。  愛梨のいないカウンタ―では、アマンとサーマが店じまいの片付けをしながら言い争いを続けていた。 「だいたい、おじさんは愛梨さんに甘すぎだよ。これじゃ、常連客が増えないじゃない」 「愛梨さんは開店当初からの大切な常連さんだ。多少の無理に応えるのは経営として当然だろ」 「そうじゃないでしょ、おじさんは愛梨さんが好きなんだよね。だから甘やかすんだよ。これじゃ、いつまでたっても日本に家族を呼べないよね」  アマンが顔を上気させて声を荒げる。「馬鹿を言うんじゃない! 売り上げは少しずつだが増えているんだ。食品の輸入販売も軌道に乗ってきた。来年には両親を呼び寄せる。だいたい、愛梨さんみたいな素敵な人がフリーであるはずがないじゃないか」 「呆れた。それっ、好きだって言っているのも同然じゃない。あのさ、親戚のよしみで忠告しますけど、ああいうタイプにははっきり言わないと伝わらないわよ。それに、愛梨さんて、ちょっと精神を病んじゃっていると思わない? 見切りをつけて見合いで結婚相手を見つけなよ。おじさん、見た目はいまいちだけど、栄養学の権威で料理研究家なんでしょ。見合いの申し出はたくさんあるって大叔父さんに聞いたわ。その煮え切らない性格には見合い結婚が向いているって思うけどな」  アマンは、サーマの生意気な物言いにかちんときた。「うるさい! 結婚相手は自分で見つける。おまえの指図は受けない。だいたい、おまえはどうなんだ。日本に来てバイトばかりしているじゃないか。何をしに来たんだ、いったい」  サーマは、渾身の反撃に出たアマンに倍返しする。「言ったでしょ、おじさんを監視するように大叔父さんから頼まれたの。何度も帰国を先延ばしにしているんだから当然よね。研究が長引いているとかなんとか、私が、大叔父さんにうまいこと報告しているから、おじさんは日本にいられるんだよ。感謝してほしいわね」  アマンは何も言い返せない。 「でもね、私にとっては渡りに船だった。私も故郷には戻りたくない。米国も食事がまずいから嫌い。日本人の結婚相手を見つけて永住権を得たいのよ。日本語学校に通いながらバイトしている方が出会いのチャンスがあるからね」  初耳だった。アマンは驚いて聞き返す「お、おまえ、日本に永住する気なのか?」 「あったりまえじゃない。この国はなんとなく平和で、自由で、食べ物もおいしい。面倒な宗教の戒律もない。女だって努力すれば何でも手に入れられる。おじさんが早く結婚相手を見つけてくれないと困るんだよ。私が先に結婚したら親戚中から文句を言われるから」 「ちょっと待て、そういう相手がいるということか」 「落とせそうなのは二、三人いる。さっきも一人、目をつけちゃった」サーマは不敵な笑みを浮かべ、大きな目をくりくりと動かした。
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