唐辛子姫はもういません

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「愛梨、愛梨って聞こえましたけど。私がどうしかしましたか」化粧直しを終えた愛梨がトイレから戻ってきて指定席に座る。 「な、なんでもないですヨ……」愛梨が英会話を完璧に理解できないと知ってはいるが、アマンはひどく狼狽した。サーマがすかさず割り込む。 「あの、愛梨さん、張り紙のことですが……」 「いいわよ、別に。入るな危険とか、猛獣がいるとか書いて貼ったら? 私、気にしないから」 「ありがとうございます。それと、愛梨さん、土日は予定ありますか?」 「……特にないけど、どうして?」 「仕入れを手伝っていただけないですか。店長がお礼にごちそうを作りますので」  アマンは、愛梨に入れたラッシーをこぼしそうになった。「な……」アマンの制止を無視してサーマが続ける。 「どうです?」 「いいけど、私、役に立つかしら。食材に詳しくないし……」愛梨は、なみなみと注がれたラッシーを飲みながら逡巡する。 「詳しくなくていいんですヨ。店長を見ているとイライラするので接近するチャンスをつくりたいだけ、いえいえ、では、朝八時に店の前で」  愛梨はサーマの強引な誘いを断り切れず、会計を済ませて店を出た。アマンが浮き浮きした様子で手を振っている。汗をたっぷり吸い込んだ服のせいで、紙袋は店に来た時の倍の重さに感じた。 「えらいことになった。サーマ、私は一体、何を作ればいいのだ!」アマンが頭を搔きむしりながら狭い店内を歩き回る。賄い(まかない)を作ることはすっかり忘れているようだ。 「得意料理をつくればいいじゃないですか……ねえ、おじさん、お腹すいたんですけど」サーマはうらめしそうにアマンをにらむ。 「単なる得意料理じゃだめだ。激辛もだめ。体に悪い。愛梨さんを健やかにする、心に刺さる料理を作らなければならない! 千載一遇のチャンスなんだ。なあ、サーマ、よいアイデアを出してくれたら、とっておきの賄いを作ろうじゃないか!」 「え~。日本語で何て言うんだっけ、そういうの。無茶ぶり?」賄いを人質に取られたサーマは頭を抱える。「唐辛子姫」の心に刺さる料理など、激辛メニューしか思い浮かばない。  長考に入ったサーマを横目に、アマンはキッチンへと向かう。戸棚から大学ノートの束を取り出し、カウンターに並べた。学生時代から書き溜めたレシピの数々が記してあるノートだ。世界中を食べ歩いて舌を鳴らした旨い物の基本的な作り方や自分なりの改良点が細かく記録されており、ノートの数は三十冊を超える。  日本は、料理研究家として訪れた旅の最後の目的地だった。ユネスコの無形文化遺産に登録された「和食」は手ごわい研究対象と見て時間をたっぷり取ることにしたのだ。アマンの父親は実業家で、祖国では成功者とみなされていた。アマンが研究のため世界中を飛び回ることができたのは父親の援助をおかげである。研究の成果を世に知らしめ、両親を早く安心させてあげたいと当時のアマンは心から思っていたのだが、二年前のあの日、アマンの運命の歯車は大きく狂ってしまった。  帰国を数日後に控え、アマンは知己のある教授を早大に尋ねた。金曜日の午後一時過ぎ。ホテルに戻る途中でぶらりと立ち寄った喫茶店「ロクリアン」で、片瀬愛梨に出会ってしまった。凛とした顔立ちと、愁いを帯びた漆黒の瞳にアマンは打ちのめされた。
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