唐辛子姫はもういません

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 アマンは、数分遅れで入ってきた愛梨とカウンタ―に並んで座ることになった。愛梨はナポリタンを注文した。アマンは横目でちらちらと愛梨を盗み見る。声をかけようとしたが、気の利いた言葉を思い浮かばない。アマンがまごまごしているうちに愛梨のナポリタンができあがった。愛梨は長い髪を後ろで束ね、タバスコを最後の一滴までどばどばとナポリタンに振りかける。隣のアマンの目もつんとするほどの刺激臭だ。 「うっ……。うむっ、うっ」愛梨が大きく目を見開き、妙なうめき声を上げながらナポリタンを貪る。愛梨の額を滴り落ちる汗もアマンには美しく見えた。  ナポリタンを完食して恍惚としている愛梨に、アマンは思い切って声をかける。 「β-エンドロフィン……」  愛梨は、聞きなれない英単語が自分に向けられて発せられたのだと気づかず、聞き流してしまった。アマンはあきらめない。 「β-エンドロフィンの効果なのです、その快感の正体は」 「ベータ、エンドロ……フィン……」褐色の肌をしたどんぐり眼の髭ずらの男が、中央でつながった太い眉をぴくぴくと動かしながら、したり顔で語り続ける。愛梨は、男が自分に話しかけいるのだとようやく自覚した。  アマンは、愛梨に見つめられて舞い上がる。関心を長く引き付けようと、自分が栄養学を極めた料理研究家であることを告げ、TRPV1(トリップヴイワン)と呼ばれる受容体とカプサイシンの関係、脳の働き、β-エンドロフィンの効果を流暢な英語で滔々と述べた。そして最後に付け加えた。「私が、あなたのβ-エンドロフィンになります」と。  愛梨が目を見開く。「あなたが……」 「はい……」決まったな。完璧だ。アマンはカウンターの上でこぶしを握る。  TRIP、COOK、REDPEPPER……。愛梨は、耳に残った印象的な英単語を頭の中でつなぎ合わせて、男の力説の中身を勝手に解釈した。 「どんな料理を作れるんですか?」 「はい?」愛梨が、上手とは言えない英語で返した意外な質問にアマンは戸惑う。 「ですから、あなたはβ-エンドロフィンの効果が得られるどんな料理を作れるのかって聞いているの」 「そ、そうですね、カレーとか。でも、私が言っているのはそういうことではなく……」 「あなたのお店はどこにあるの? 伺います」  愛梨の見当違いな質問にアマンの困惑が深まる。渾身のプロポーズをはぐらかしているのだろうか……。アマンは折れそうになる心を懸命に支える。「私は、COOK(料理人)ではなく、研究家(RESEARCHER)でして、お店はまだ……」 「そうなんですか……残念だわ」愛梨の目にみるみる失意の色が広がる。アマンは、潮が引くように彼女の関心が自分から遠ざかっていくのがつらかった。 「試しに作ってみなよ、カレー。知識はあるんだろ? ここのキッチンを使っていいからさ」真っ白なひげを蓄えた喫茶店のマスターが、愛梨の前にカフェオーレを置きながら、会話に割り込んできた。「来週の金曜日、午後1時。どうかな? 俺も食べてみたいよ、あんたのカレー。愛梨ちゃんは?」 「いいですね、楽しみだわ。私には辛いのをお願いしますね」愛梨の目に再び輝きが戻る。愛梨って名前なのか……。笑顔も素敵だな……。アマンは帰国を延期して愛梨とマスターにカレーをふるまうことにした。  カレーは大好評だった。アマンは、愛梨がおいしそうに自分の料理を食べてくれたのがうれしくて、店長の勧めに飛びつき、勢いでカレー屋を始めてしまった。合理性を重んじて慎重に生きてきたそれまでの人生からは想像もつかない軽はずみな行動だ。あれから二年。出足でつまずいて元来の臆病な性格がもたげてしまい、愛梨との関係は、店長と常連客のまま一ミリも進展していない。激辛カレーを食べているとき以外の愛梨が、魂を抜かれたように見える理由もいまだに分からない。前にも後ろにも進まない袋小路に焦りを感じ始めていた矢先、おせっかいで生意気な監視役のサーマが、愛梨との距離を縮めるチャンスをくれた。アマンは、ここが我が人生の正念場なのだと密かに腹をくくった。
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