唐辛子姫はもういません

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 伝票と書類の処理に追われ、気が付けば夜になっていた。上司は既に帰宅した。カウンターや営業の社員も一人また一人といなくなり、愛梨が叩くキーボードの音だけがカタカタと薄暗いオフィスに響く。 ----今日のカレーも完璧だったな。  愛梨は、アマンのチキンカレーを思い出して空腹を覚えた。明日はどんな料理を作ってくれるのかしら……。  愛梨は、明日の約束を密かに楽しみにしている自分に驚く。考えてみればこの三年、何かに心を躍らせて一日を終えることなど皆無だった。激辛カレーを食べてかろうじて生きていることを実感する空虚な日々を抜け出せずにいたのだ。女として、人として、普通に生きるために必要な部品か何かが壊れてしまったのかもしれないと思う。  愛梨は自席で背伸びをする。もうひと踏ん張りすれば終わりだ。軽く飲んで帰ろうかな……。そう思った瞬間、航空会社にFAXしようとしていた目の前の書類に社印が必要なことに気づく。慌てて上司の机を確認したが、当然ながら机上にはなく、引き出しには鍵がかかっていた。 ----仕方ない。まだいるはずだ。  書類を手に取り、二階の社長室に向かう。案の定、わずかに開いた扉からは明かりが漏れていた。愛梨は深呼吸してドアを軽くノックする。 「どうぞ」  社長室に一歩踏み入って、愛梨は酒の匂いにむせた。 「社長、すみません。社印が必要な書類がありまして……」 「社印ね、はいはい。おっ、いい香りだ。またカレーかい」 「えっ、匂いますか? すみません。歯磨きもマウスウォッシュもしたのですが……」愛梨が恐縮して頬を染める。社長の二宮武志(にのみや・たけし)はくすりと笑って、震える手で書類を受け取り、不器用に社印を押した。 「謝ることはないさ。僕は人一倍、鼻が利くんだ。ほかの人にはわからないよ。はい、どうぞ」二宮は書類を差し出し、左手のグラスでウイスキーを生のまま煽った。 「ありがとうございます。あの、社長……。差し出がましいことを言うようですが、ほどほどにされたほうが……」  二宮は、目を伏せてふうと息を吐き、いつもの言い訳を口にした。「わかっているんだが、金曜日になると、どうもね。あの日のことが思い出されて、止まらなくなる……」  愛梨は、二宮の青白い顔に浮かぶ悔恨の念を見るのがつらい。慰めにならないと百も承知で、使い古した台詞が口をついて出る。 「社長の責任ではありません。防げなかった事故です」 「ありがとう。でもね、運航会社の素行調査を十分せずにツアーにゴーサインを出したのは私だ。お客さんと跡取り息子を失い、君にも辛い思いをさせた。遺体も見つかっていない。気持ちに区切りがつかないんだよ」  愛梨にはもう、二宮にかける言葉が見当たらない。沈黙に耐えられなくなり、軽くお辞儀をして社長室のドアに手をかける。 「片瀬さん、君には感謝しているんだ。事務全般を一人でこなせる人材はそうはいない。でも、婚約していたからって達志(たつし)に義理立てする必要はないんだよ。君はまだ若い。新しい出会いだってあるだろう」 「……」義理の父親になるはずだった二宮の気遣いに愛梨の胸がうずく。 「僕が酒を飲むのはね、アルコールの力で脳を麻痺させたいからなんだと思う。あれこれ考えないで済むようにね。社員がいるから会社を投げ出すわけにもいかん。僕は、ここで歯を食いしばるしかない。でも、片瀬さんは違うだろ。このちっぽけな会社と激辛カレーに依存しないで済む別の人生があるはずだ」  二宮は全てお見通しだった。愛莉は平静を装い、振り返る。「ご心配いただきありがとうございます。私も、社長と同じです。なかなか気持ちに区切りがつきません。このままではいけないと分かってはいます。でも、心と体が前に進まないんです。もう少し、時間をいただけませんか……」  二宮が目を伏せる。「責めるような言い方をしてすまなかった。私はただ……」 「わかっています。失礼します」  愛梨は、航空会社に書類をFAXすると、素早く着替えて会社を飛び出した。金曜日の夜だ。高田馬場の駅前はサラリーマンと学生たちの楽しげな声で溢れていた。湿り気を帯びた夜風が運んでくるさまざまな料理の匂いが愛梨の記憶を呼び起こす。  仕事を終え、達志と手をつないで歩いたマンションまでの道のりは、思い出の店で一杯だ。寿司に焼肉、韓国料理、タイ料理、レバノン料理……。おいしいものを食べ歩くのがたったひとつの共通の趣味だった。ツアーの先々でいつも地元の珍味をお土産に買ってきてくれたっけ……。片付けが苦手でお風呂嫌いで頑固だけど、嘘がなくいつもにこにこしていた達志。不思議なものだ。しょっちゅう喧嘩していたのに、北海道の海で行方不明になってからというもの、彼の好ましいところばかりが思い出される。  達志……。愛梨の視界でネオンがにじむ。会社で感じた空腹感はもうどこにもなかった。
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