唐辛子姫はもういません

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 目覚まし時計のけたたましい音に愛梨ははっとする。今日は土曜日のはずでは……。ぼんやりとした頭が約束を思い出すのにたっぷり一分はかかった。そうだ、市場に行くんだったっけ……。  昨夜は結局、食欲が戻らず、冷蔵庫のビールを飲んでいつのまにか寝てしまった。心なしか体がだるい。愛梨は、洗面台に映った青白い顔を見てげんなりした。これでは近所のコンビニにも行けないな……。  熱めのお湯でシャワーを浴び、コーヒーを飲んで念入りに化粧をする。行きつけのカレー屋の店長とアルバイトとはいえ、こんな幽霊みたいな顔を見せるのは申し訳けがない。服装くらいはせめて明るくしようと思い、鮮やかな藍色のジーンズに、水色と白のストライプのシルクシャツを合わせた。ウォーキングシューズを履いて玄関を出る。約束の時間には少し早いが、達志との思い出が詰まった部屋に今日は一人でいたくなかった。 「愛梨さん! おはようございます」 「アマンズ・カレー」の前でサーマが笑顔で手を振っている。愛莉は慌てて駆け寄った。 「おはようございます。お待たせしてすみません」  約束より十分早く到着したのに……意外と時間に正確なのね。愛梨は内心でつぶやきながら、アマンに目を向けてぎよっとした。 「あの、今日は市場に仕入れに行くのですよね……」 「そうです。これは、クルタ・パジャマという民族衣装です。いつもTシャツとチノパンなので、たまには着てみようかと思いましてネ。愛梨さんにもお見せしたかったのですヨ」 「はあ……」  派手なパジャマだな……。朝日を反射してきらきらと輝く金色の生地がまぶしい。袖や襟には美しい刺繍が施されていた。リアクションに困っている愛梨を見かねて、サーマが口を挟む。 「愛梨さん、気にしないでいいですからネ。日本語で何て言うんだっけ、こういうの。空回り? 独り相撲?」 「何だと!」アマンがサーマをにらんだが、頬は緩んでいる。 「仕入れがお好きなんですね」愛梨の的外れな返事を合図に、三人は北新宿の市場に向けて歩き出した。
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