唐辛子姫はもういません

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 中央卸売淀橋市場では一日平均七百~千トンの野菜と果物が取引される。飲食店がひしめく副都心とその周辺の青果需要に応える要衝だ。アマンも、トマトやジャガイモ、ナス、オクラといった野菜を週末にまとめて仕入れていた。 「すごい量ですね」市場を初めて訪れた愛莉は思わず声を上げた。 「果物も充実していますよ。愛梨さん、今朝はどんな果物を?」アマンがトマトを品定めしながら尋ねた。 「実は食欲がなくて昨夜から何も……」愛梨のつぶやきにアマンは驚愕し、目玉がこぼれ落ちるのではないかと心配になるほど目を見開いた。 「そ、それはいけません! ここで待っていてくださいネ。すぐに戻ります」  うず高く積まれた色とりどりの野菜の中を金色のパジャマ男が走っていく。サーマは、仲買のおじさんにおねだりして果物を試食するのに忙しそうだ。愛梨が所在なく立ちすくんでいると、アマンが両手に何かを抱えて走って戻ってきた。 「愛梨さん、これを飲んでください!」  息を切らせながらアマンが差し出した紙コップには、どろりとした緑色の液体がなみなみと注がれ、ストローが挿してあった。 「これは……」 「朝ごはんです。トリプトファンが豊富なバナナと豆乳がベースですが、旬の野菜と果物もたっぷり入っていますヨ。体温を上げて脳や体をウォーミングアップしなければいけません」  アマンの気迫に負けて愛莉はこわごわと液体をすする。「あらっ、おいしい……」 「おじさん、私にもちょうだい!」。サーマが「おいしい」の一言に反応してアマンの手から紙コップを奪った。  愛梨たちはスムージーをちゅうちゅうと吸いながら市場を回る。仕入れた野菜をキャリーカートで運ぶのは、アルバイト代を上乗せしてもらっているサーマの役目だ。愛梨は何も手伝うことがなく、青果に関するアマンのうんちくを興味深く拝聴した。 「牛のレバーや豚のロース、鶏のムネ肉もトリプトファンが豊富なんですよ」  早稲田通りの精肉店でアマンがまたトリプトファンという単語を口にした。もう四回目だ。さすがに気になる。愛莉が尋ねようとすると、サーマが「おなかがすいた」と暴れ出した。重い荷物を引いて数キロ歩けば当然だろう。 「サーマちゃん、ごめんなさいね。私、結局何も手伝えなかったわ」  愛梨は「アマンズ・カレー」のカウンタ―でぐったりしているサーマに詫びた。 「愛梨さん、いいんですヨ。計画通りです。私は結婚に向けて着々と前進しています。日本語で何て言うんでしたっけ、こういうの。将を射んと欲すればまずラバを殺せ、でしたっけ?」 「まず馬を射よ、ね」サーマちゃんの結婚と、私が市場に行くことにどんな因果関係があるのだろうか。愛梨には皆目見当がつかなかった。キッチンからおいしそうな匂いが漂ってくる。 「サーマ、料理ができたぞ。運んでくれないか」 「待ってました!」  愛梨は、カウンターに並んだアマンの料理に瞠目した。シシトウの素揚げに、色とりどりの野菜を刻んだレリッシュ、牛レバーとショウガの甘辛煮、ズッキーニとアボカドとマグロのグラタン、チキンビリヤニ……。素材の味を出汁やスパイスで上手に引き出し、香りや色も楽しめるよう工夫してある。プロの仕事だった。 「おいしい……」愛莉は黙々と食べ続け、レバーの甘辛煮を口にしたところでふと思い出す。「アマンさん、トリプトファンて何ですか?」 「神経細胞がセロトニンという『幸せホルモン』をつくるのに必要な物質なんでヨ。セロトニンがしっかり分泌されていると、ポジティブな気持ちが沸き上がってくるのです。β-エンドロフィン以外にも幸福感を得られる食事はあるのですヨ」 「店長は、愛梨さんに笑ってほしいんだよねエ。涙ぐましいよね。日本語で何て言うんだっけ、こういうの? 痛すぎる、だっけ」 「痛いとは何だ!」  そうだったの……。サーマとアマンの言い争いを聞きながら、愛梨は内心、動揺していた。アマンの気持ちに全く気付かず、厚意に甘えてきてことを悔やんだ。今の自分には、アマンの気持ちに応える自信も気力もない。先延ばしにすれば、人のよさそうなアマンを深く傷つけてしまうことになる。  これ以上、深入りしてはいけないよね。きちんと話をしなければ……。  愛梨は姿勢を正して静かに言った。「お二人に聞いていただきたいことがあります」
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