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例えば、世界で一人だけ生き残る相手を選べるとしたら、お互いを選ぶことはない。
例えば、誰かを道ずれにして“死ね”と言われるとしたら、お互いを選ぶかもしれない。
例えば、同性で肉体関係を持てと言われたとしたら、一番に思い浮かぶのはお互いの顔だろう。
例えば、この関係に名前をつけるとしたら──?
◆◇◆
染めた事のない髪は重めの天然パーマを伸ばし、服装から靴まで真っ黒な男・黄崋(こうか)は、疲れた時、なにも考えたくない時、なにをしていても無意識に足が向く場所がある。
「っす」
「おぅ」
金髪を左側だけ瞳を隠すように垂らし、他は後頭部で結んでいる男・菱木は、約束もなく、同じ時間に、同じ場所で出逢えたら、特別な挨拶も、会話も愛想もなく、視線が重なり共に歩きだす──そんな関係だ。
◆◇◆
視界に入るモノ全てを見ているようで、見えていなさそうな瞳の男・黄崋(こうか)は、出会った頃から変わりなく、喪服のように真っ黒な服装、染めたことのなさそうな黒髪は天然パーマで肩まで無造作に伸ばされている。変わらないスタイルと、長身だからか、ただの癖か、少し猫背の姿勢は他人が避けるような雰囲気に見えるだろう。
黄崋と特別な約束もなく、同じ時間、同じ場所に佇む姿が、彼の無言の悲鳴だと思うようになったのはいつからだったかなんて忘れたが、見かければ声をかける不思議な関係は、気づけば三年目を迎えた。
「はい、カフェ【金山華】とうちゃーく」
朝でも昼でも夕方でも薄暗いビルの地下。
階段を下りた目の前に、重厚感のある金属の分厚い扉が出迎える。茨の蔦のような柄などが彫られ、アンティーク船のステアリングホイールハンドルのようなドアノブの下に掛けられている、ハガキを横に向けた小さなステンドグラスが、カフェ【金山華】の看板。
慎ましいのか大胆なのか判らず、店の扉には見えないが、一度見たら忘れられないデザインと、カードキーで開閉できる所が、菱木は気に入っている場所だ。
「さ、座った座った。今、珈琲淹れるからちょっと待ってくださいね」
カウンターに入り、水を入れたホーローのケトルを火にかけて、ドリップの準備をする。のっそりと定位置になったカウンターチェアに腰かけた黄崋を観察していく。
逢った時から変わらない表情。
視線はどこを見ているのか不明。
浅いのにゆっくりとした呼吸。
目の前にいるのに、存在感は希薄なまま。
「今日はなにか食べますか? オススメはサラミたっぷりサンドイッチ」
レモン水を注いだグラスをサーブしながら、軽い口調で問いかけるが反応はない。
珈琲を淹れるのに最適な温度になったお湯を、ゆっくりと円を描くように手で挽いた豆に注げば、芳ばしい香りが立ち上る。この瞬間が好きだ。
「さぁ、召し上がれ」
南天の実が色づいた枝の描かれた、珈琲のカップソーサー。絵柄は季節外れだが、恐らく“背負っている”黄崋には丁度いいだろう。
カフェ【金山華】のオーナーであり、約束のない関係の相手である菱木は、常に浮かべている微笑みを少しだけ深くした。
◆◇◆
見えていた、見えている。
聞こえていた、聞こえている。
歩いていた、座っている。
手に馴染んだカップソーサーに注がれた珈琲から視線を動かし、見慣れたカフェのカウンターの中にいる菱木(ひしき)と目が合った。
「いかがですか」
「えぇ、と。おいしいです?」
カウンター越しに、穏やかな笑顔のまま両手を組んでいる菱木の雰囲気は穏やかでは、ない。
「味は判りますか?」
淡々と問われる内容に、しどろもどろと答えていき、最後に一本の紙巻き煙草と灰皿を差し出された。
「どうぞ、一服」
昨今の国を上げた禁煙ムーブの中、この店は喫煙を可能にしている。
「どうも」
長年連れ添ったオイルライターで、紙巻き煙草に火をつけ、深く紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
硬くなっていた肺が、柔らかく広がる感覚と共に、異様な重怠さが少し消えた気がする。
「今日、俺、休みだったんですけど。丁度店に忘れ物したのを思い出してよかったですね」
「本当だな。やっと意識と感覚が戻ってきた」
「まったく」
菱木は、年下ながら頼りになり、面倒な体質を見抜いた初めての男だ。金髪に蜂蜜色の瞳をしたイケメンという風貌ながら、仕事は完璧に遂行するのを隣で何度か見た。
「しっかし、今日も今日とて、多すぎませんか。前回顔を合わせたの一週間前ですけど。どこか行ったんですか?」
羽虫を手で払うような仕草をしながら、甘そうな蜂蜜色の瞳は黄崋の背後を警戒しているのが判るが、特別出掛けた事はなく、いつもの生活をしていただけだ。
「普通に仕事場と家と、近くのコンビニと、スーパーに行くくらいで、オレがあんまり人混み好きじゃないのはお前も知っているだろう」
「そりゃ知ってますけど。むしろ仕事関係の出先で何かあったとか。常に異様に怒ってる人とすれ違ったり、話したり……あとは、辻道を通ったりとか」
「辻道……そういえば、祠じゃなくて割れた石碑みたいなものが置いてある辻道は通ったぞ」
「へぇ、珍しい。なんて書いてあったか判りますか?」
穏やかなのは口調だけ。ドラマで観るような重箱の隅をつついて、つついて、相手の言葉の不自然さや相違点を引き出す雰囲気があり、若干怖い。
「風化してて読めなかったんだが……たしか石、なんとか、富? みたいな文字だった気がする」
「もしかして、石敢當(いしがんどう)……ですかね」
注文表を一枚取って白紙の面にサラリと角ばった読みやすい字を書いて黄崋に見せた。
「それ、かもしれん」
「当たりのようで」
ギッ……
ギギギギギギギギギギギギギギギギィギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギ──
耳鳴りが変わったのを自覚したが、無視をする。
菱木の視線の先に黄崋はいない。黄崋は視る事ができない“ナニか”が、菱木の言葉に反応したのだろう。
菱木曰く、黄崋は“目”が余り良くないから視えない。視力検査でわかる“視力”ではない。黄崋自身に、起こる不可思議な体調不良の原因を“視る”事ができないのに、良くも悪くも“惹き付ける”体質らしい。
「石敢當というのは、“辻神”。辻道を現世と来世の境界だという説のなかで出てくる、“魔物”を抑えるために置いたと云われる、魔除けの石です。僕は、以前に石碑は見かけますけど、流石に魔物には出逢ったことがなくてどんな姿をしているのか知りませんでした。」
いつでも、どれだけ煩くても、菱木の声だけは聞こえ、自分の居場所が何処かを思い出させてくれる。
説明をしていた間に、菱木はカウンターの中から出て黄崋の隣へと来ていた。
菱木が纏う珈琲の香りと何処か懐かしい甘い香りで、黄崋の鼻腔を擽り力が抜けて菱木の肩に額を預けながら問いかける。
「珍しいのか」
「南九州から南島には多くあるみたいですけど、僕は、なかなか行く機会はないので珍しいです。ここら辺だと祠とか、お地蔵様とか、珍しいのだと弘法大師様の祠もあったりしますね。元々は古神道を祀ってたんですが、神仏習合で仏様も祀るようになったので……、まぁ色々地域性があったりします」
簡潔に説明を終わらせたのと同時に、全身の力が抜けた黄崋を、菱木が抱き寄せた。
──ギギギギギギギギギィィィザザザアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァアアアアアアアアアア
空気が重く押し潰されそうな“怒り”を感じる。
視界に入りこむノイズ、鼓膜が破れそうな耳鳴り。心臓を掴まれているような息苦しさに襲われ、冷や汗なのか脂汗なのか判らないものが溢れて、本能的な恐怖なのか寒気でガチガチと歯が噛み合わない。
「はい、呼吸して」
ポンポンと回された手で叩かれるリズムを追うように息を吸って、吐き出すが酸素が足りないのか視界は霞
んでいく。
冷えていくのに熱を持つ身体と、ジェット機が飛び立つ瞬間を間近で見ているような騒音が耳のなかで脈打ちながら、ナニかの叫び声で何も聞こえなくなった瞬間──耳元で菱木の声が聞こえる。
「──あげませんよ」
灼熱のような音が、凛とした声によって打ち消されて行くのを感じながら、意識は闇に呑まれていった。
黄崋は相変わらず無駄に憑かれる人だと菱木は思う。
初めてあった時から、対策をしても、対策をしても、変わらない体質は、どこまでナニを引き寄せるのか判ったものではない。
「今回は、辻道で辻神と呼ばれる“魔物”の残骸を引き寄せただけで良かったような、良くないような……」
気絶した黄崋をソファー席に寝かせてから一時間は経った。
取り憑くモノの種類を考え出すとキリがない。人間は思考する動物であり、身の回りに起こる不思議に解釈をつけて名前を与え、形をあてがう。
人間が気づかなければ、解釈を与えなければ、“自然”の一部であり、流行り病であり、ただの人間同士の悪意であったかもしれない現象に、“名前”を与え、“解釈”をする。
その行為は“自然”や“流行り病”や、“人間の悪意”に意味を持たせ、人間の無意識の畏れが産み出した、時に意思を持つモノであると解釈している。注釈を入れるとすれば“解釈の範囲に収まるならば”と入れるだろう。
この解釈では説明しきれないモノが存在することもまた理解しているからだ。
「しかし、よく寝るな」
カフェ【金山華】は文字通りカフェであり、本来寝る場所は提供してはいないが、緊急時には貸し出すこともある。黄崋はほぼ毎回利用するためいい加減スタッフルームに簡易ベッドでも置こうかと思うほどだ。
「悪夢は見てなさそうだし、明日の仕込みでもするか」
ふわり、ふわりと黄崋の周りを浮遊する小さな蟲(むし)を手で追い払い、龍の香炉で蟲避けの香を焚いて眠る黄崋の全身に煙を巡らせ、顔に近い位置に置く。
「そんなにオイシソウなのかねぇ」
猩々蝿よりも小さく、丸い形をした蟲(むし)が群れとなって黄崋に取り憑こうとしている光景が視える。まだ蟲が群れているだけで、そこまで問題はないと判断するがあまり放置すると形を成して悪さをするため、適度に散らす必要がある。
「まったく、よく惹き付ける人だ」
黄崋の額にキスをひとつ。労働の対価は起きたあとに請求するが、先に少し貰ってもいだろうと菱木は嗤った。
◆◇◆
黄崋(こうか)という男は、菱木に出逢う前は“生きる”ことに疲れていた。
物心ついた時からほぼ毎日体調が悪く、学校行事に出れないことも多く、出席日数ギリギリ保持し、あとはテストの点と内申点でどうにか学業はやりくりしていた。だが、仕事となると話は別だ。定期的には休めない。職務に支障をきたすと思い、重い腰をあげて総合病院で診察を受けた。
どれだけ体調が悪いかと医者に説明をして検査をしても、異常なし・原因があるとすればストレスと言われる健康体。だが、自分の身体が本当は他人のモノではないかと思うほど、毎日“生きる”ことに疲れる。
原因究明と対処療法を見つけるためと、巡りに巡って行き着いたのは、東洋医学を専門とした漢方相談もできる医者。
ふんわりとした優しい雰囲気の男性医師が下した診断は“未病”。病気以前の体調不良状態の可能性があると説明された。
常に目眩、食欲の急激な増減、体重減少、嘔吐、急激な眠気は当たり前。
夜道を歩けば、暗がりの闇が蠢くように見えて落ち着かず、大通りに近いマンションの自宅は異様に賑やかで、落ち着いて寝ることすらできないと主張すると、医者は渋い顔をして抗うつ作用のある薬と睡眠導入剤を処方するしかない。と告げた。
「でもさ、黄崋さんは別にメンタルの不調で病気になってるわけでもなさそうなんで……。彼を紹介してみようかなと思います」
ただ呼吸をして、生きているだけで通常の何倍も疲れる人生だと諦観した時、東洋医学の医者から一枚の名刺を渡された。
「彼ね、ちょっとだけ怪しそうに見えるけど、きっと君の役に立つと思うんですよね。僕には判らないモノを見つけてくれる人だから。えーと、この名刺の裏にある住所のカフェに行ってみてください」
抽象的な紹介だが、“未病”と云われて薬を処方されるだけじゃない、黄崋の主張と疑問に答えようとした医者の紹介と、名刺が手元に残った。
カフェ【金山華】・オーナー菱木とだけ書かれた面の裏には、簡単な地図と、大人の好奇心を擽るカフェ。という紹介文。
「カフェ……で、なにがわかるんだろう」
本当に身体が重くて、重力に従って押し潰されてしまいそうで、耳鳴りもする。原因は気圧なのか、貧血なのか、はたまた他の病気かと薬を飲んでも特別改善はなく。様々な検査しても、原因が判らない事実を突きつけられることにも疲れていた。
出たついでにとは行けないため、病院から帰ろうと大通りへと出て、老舗の大型複合施設を通り過ぎようとした瞬間。立っていることも、しゃがむことも、辛い頭痛が黄崋を襲った。
「っ、ぃった……」
自分の脈と共に繰り返し響く頭痛から生じ金属共鳴のような耳鳴りで車の通行音も、歩行者の音も、信号機の通行音も、全てを掻き消し、しゃがんでいることすら難しい状態になった時──
「……大丈夫じゃなさそうですね。病院か、どこか休める場所かどちらがいいですか」
──凛とした声が、聞こえた。
「ぅ、やすみ、たい……」
病院に行ってもとりあえず横になって落ち着くのを待つだけならば、どこでも一緒であり病院への道筋を伝えることすら辛い。
「わかりました。ここから直ぐにある、俺の経営するカフェでお水と場所を提供します」
──ジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジンジン
音が変わり、痛みが増した。
自分の声も聞こえにくいほどの耳鳴りだが、手を貸してくれる男の凛とした声だけは、良く聞こえる。
不思議と、ずっとこの声を聞いていたいと思った。
歩けない黄崋を背負った男は、なんの苦もなく自分の荷物と黄崋の荷物も抱え、なるべく振動を与えずに金崋と、とあるカフェに入った。
「っと、今日はまだ開店前なんで、ソファーで寝転んでてください。飲めたら薬を飲んでください。水だけでも飲んだ方がいいと思いますよ」
横たえられた身体はゆっくりと、革ばりソファーの冷たさで呼吸がしやすくなり、起き上がれそうだと判断できるまでになった時、水を入れたコップを持ってきた男が、黄崋が起き上がる補助をしてくれた。
「はい、ゆっくりと飲んでくださいね」
「ありがとう、ございます」
金髪に蜂蜜色の瞳の男だと視認できたのは、出された水を飲んで程なくしてからだった。水を一口飲むほどに身体が楽になるのを感じる。
「あの……」
「あ、お香苦手でしたか? お水、もう少し飲みませんか」
穏やかに微笑んで水をつぎ足して、香炉を手に取った。
「お水ありがとうございます。えっと、そのお香? の香りは気になりません」
「そうですか、良かった。もう少しこちらでお休みした方がよろしいかと思いますよ」
「へ?」
──ッバン! バン!! ドドドドドドドドッ……ドンッ、ドンッ!ドン!!ドン!!ドン!!ドン!!
「ひぃっ!?」
「あぁ、見つかりましたね」
一番最初に出入口のドア付近で、壁を叩き壊しそうな音。まるで、中に入れない怒りを現すような音に驚いていると、音が壁を縦横無尽に叩きながらなにかを探すように動き出した。
「え、見つかった?」
「あなた、めんどくさいものに憑かれていたので“置いてきた”んですが、どうも見つかりそうですね」
──ドン、ドン、ドン、ドドドドドドドドドドドドドドドッバン、バンッ、バンッバンッバンッバンッバンッ
店を構成する壁という壁から衝撃で揺れるほどの音が響く異常事態なのに、なぜか目の前の金髪の男は穏やかに微笑んでいる。
「あ、あの……」
「はい、香炉をお持ちくださいね。音が見つけちゃいますから」
ドドンッ──
バンッ──
バンッ──
音が探し物見つけた様にゆっくりと、黄崋の背後へと近づいてくる。
「……っ」
「はい、お水を口に含んで、飲み込まない。息は鼻呼吸して。絶対声を出さないでくださいね」
穏やかに、冷静に、指示を出されるがまま、水を口に含んで、香炉を抱えれば、キナリ色の刺繍が入ったタオルケットのようなものを黄崋の頭から被せた。
「大丈夫です。外から中に入るのが難しい場合、どこかを壊すために一点集中で狙いますよね」
──バンッ、バンッゴッ……ドンドンドンドンドンドンッゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンッ──
音が変わった。
黄崋の真下の床、真後ろの壁、真上の天井に音が集中して、今にも壊して入ってきそうな印象を受ける。
ガゴンッ──ゴ……ゴンッ──
あまりの恐怖に身体が震えて水を飲み込みそうになる黄崋を落ち着かせるように、菱木が微笑んだ。
「……、……!」
「しー、大丈夫ですよ。落ち着いて」
甘そうな蜂蜜色の瞳と、凛とした声は、初めて逢ったのに安堵感を感じ、菱木(この男)の傍にいれば安全だと思う。なにか不思議な力でもあるのだろうか。
ゴッゴッゴンッ──
無駄な音がなくなり、ソファーの後ろにある壁から人間が頭を壁に打ち付けるような、金属の塊をぶつけるような音が“壁を壊す”意志を持って響いているように聞こえる。
「残念ながら、この店の壁は壊れませんよ」
──さぁ、おいでなさい。
ゾワリと背筋が粟立つ。本能的な恐怖に身体が反応した。視線の先では、金髪男が美しい毒を持った花のような雰囲気を醸し出していて、黄崋には見えない見えないナニかが、男の周りにいる威圧感のようなものを肌で感じた──。
◆◇◆
菱木はなにも知らずに、理不尽にも命を狙われている黄崋の事情の一端を“視て”、察して、助けてくれた。
──それが、この関係の始まりだ。
「あ、起きましたか」
「……っぃたた、すまん。また面倒をかけた」
「まったく、御守りか、護符が焦げたり、異変があったら連絡をしてくださいと言っているでしょう」
睥睨する蜂蜜色の瞳に、こちらが自分の居場所だと理解する。いつからだったか、普段の菱木の表情が柔らかくて人の良さそうな笑顔という印象から、胡散臭い笑顔だと認識が変わり、二人でいる時に見せる表情が“素”なのではないかと思うようになっていた。
「とりあえずカロリー摂ってくださーい」
「あぁ」
ミルクティとクッキー数種類。好きなシンプルなバタークッキーの枚数が少し多い。どれも口のなかでホロホロと崩れてミルクティによく合う。
「うまい」
「そう」
灰色混じりのモノトーンの視界は彩を取り戻し、耳鳴りが音を消すように鳴り響いていた耳も落ち着いた。暑いはずなのに寒かった温度は空調の効いた丁度いい温度だと判る。
先ほどまでの“判る気がする”とは違う。
「今回は、なんだったんだ?」
「よくないモノ。神と称されたモノだよ」
甘そうな蜂蜜色の瞳が煌めいて、揺らめいて、──まだ解決していないのだと理解した。
「いい加減、借金みたいに背負うの辞めませんかー? いい加減にしないと死にますよ」
「そのための、お前からの“仕事”だろう」
簡単に言えば厄祓い。神社で行う神事ではないが、菱木は人間に憑いたモノを祓う仕事を請け負っている。カフェのオーナーと、どちらが本業なのかは本人も悩むようになったのは人の感情の暗がりが増えてきたということだろうか。
「……はぁ、そうですけど。今回のは分割ですかねぇ」
菱木の視線がナニかを辿って上へ、下へ、横へと動いて黄崋に戻る。
「ま、先払い貰えないレベルなんですけど」
テーブル席の向かいに座っていた菱木が身を乗り出してキスをする。先ほどまで飲んでいたミルクティの味と菱木が飲んでいたハーブティの味が混ざりあって不思議な香りになった。
「キスはいいんだ?」
「これは先ほどの分です。俺が倒れない程度にしか貰ってないんでマジで割に合わない」
むっすりとする菱木に、苦笑いするしかない。
恋人でもない歳上の男とのキスなのに、いつも丁寧で恋愛の甘さを感じない不思議な後味に、気づけば嵌まっていた。
◆◇◆
例えば、世界で一人だけ生き残る相手を選べるとしたら、お互いを選ぶことはない。
例えば、誰かを道ずれにして“死ね”と言われるとしたら、お互いを選ぶかもしれない。
例えば、同性で肉体関係を持てと言われたとしたら、一番に思い浮かぶのはお互いの顔だろう。
例えば、この関係に名前をつけるとしたら──
◆◇◆
菱木にとって黄崋という男は、歳上の同性で、初めて逢った日から異質であり、特別だった。
目的地は、三時間かけて着いた電車の最寄り駅からバスで二時間。更に歩きで一時間。
美しい森林に包まれていて時期には蛍が見れるハイキングコースとしても人気な場所だが、あまり人通りは多くなく村人しかいない印象だ。
ホタル狩り以外での観光客が少ないのか、一九〇センチはある身長と金髪の男二人組なのがいけないのか、村人は菱木と黄崋を訝しそうに遠巻きに観察している。一言でいうと、居心地がよくない。
「あ、すみません。お時間よろしいですか?」
爽やかに胡散臭いとよく思う菱木の笑顔は、村の年配者にも有効だった。あれやこれやと話を聞き出していく。
「山のなかに行くのはいいが、日のあるうちに帰ることだね」
「おや、なぜでしょう」
「“ヒトクイ”様に会いたくなきゃ、さっさと帰ることだ」
会う人全員に言われる言葉。──日暮れまでに山を出ろ。という戒めと、──“ヒトクイ様”という名称。隣で穏やかそうに笑う金髪の男からは、知り合いの古民家に泊まりがてらのお仕事です。としか聞いていない。
そう、聞いていなかった。
知り合いの古民家が山の中腹辺りにあり、菱木も初めていく場所だとは!
「ちょっと待って、アラサーにはキツい」
「なにいってんですか、二十九歳。さっさとしないと連れていかれますよ」
「二十四歳にはわからない身体の衰えがあってなぁ」
「ほら、早く」
文句を言いながら足を動かす黄崋を急かして古民家へと入ると、菱木は木戸に札を一枚貼り付ける、気休め程度だが無いよりマシだとぼやくのを、息を整えながら見守る。
「今回のお仕事ですが」
「え、待って、現地で仕事内容発表なのか」
「この古民家の近くにある、そこまで深くない滝に出る“蛍”を捕まえます」
「ホタル? 時季じゃないだろ」
黄崋を無視して仕事内容を発表した。
まだまだ暑いとはいえ、秋の時候。蛍の季節は終わっているが、紅葉はまだ早い木々は夏のような色をしている。
「それは普通のホタルのこと。ここにいるのは“ヒトクイ蛍”と呼ばれて、恐れられているモノです」
埃ひとつない廊下を歩きながら窓という窓に、木戸と同じ札を貼り付けていく後ろをついていく。
「んん? でもここ普通にホタルで有名だよな」
「まぁ、そうですね」
「そんな怪異みたいな話聞いたことないんだが」
「まぁ、そうでしょうね」
黙々と作業をしていく菱木の顔色の悪さも気になってきた。
「なぁ」
「あと少しなので黙ってください」
残り窓一枚に札を貼り付け、次は各部屋に香を焚き始めようとするのを阻止して一旦座らせる。熱中症のように真っ赤だった顔色が青ざめはじめているのは見過ごせない。
「……お香、」
「わかった。落ち着け」
普段使う香炉に火を点してまず玄関正面の部屋の中で、出来るだけ中央に香炉を置く。
「はやくしないと、余計なモノまで入って来るんです」
「え、さっきの札は? 外からの侵入を防ぐモノじゃなないのか?」
ペタペタと“出入り”できる所にばすべて貼ってあるのに? と視線を送れば睨まれる。
「説明はあとでする。いいからはやくしろ」
菱木を座椅子に座らせて水分を取らせた。
玄関から真正面に一室、その左側に二室。
玄関すぐ横にはトイレと風呂。真っ直ぐのびた廊下を行くと、広いダイニングキッチンのような台所があり、突き当たりに一部屋ある。
形としては長方形の家らしい。
その全室に香炉を置きながら、異様に綺麗だと思った。普段使われていないはずの古民家なのに、毎日丁寧に拭き掃除をしているような、使い込まれた光沢感のある柱や欄間、埃も塵もない部屋の隅や障子の木枠。
そこかしこに違和感がある家だ。
「終わった」
「ありがとうございます」
台所の向かいにある部屋に菱木を休ませていたそこは、丁度庭が良く見える目隠しをはずして部屋と、見える範囲の庭を視て、ほっと息をつく。
「黄崋さんの抱えるモノ以外は一応距離を取ってくれたようです」
黄崋には、菱木に視えるモノがわからない。
いつでも菱木は、どこか諦観した視線で世界を見ている気がする。
「よかったけど、これからどうするの」
「まずは、夕方まで待ちます。本来なら夜の方がいいんですが、さすがに夜から動き出すのは遭難になるので早めに動こうかと。それから、村の人に会っても滝に蛍を観に来たなんて言わないでください。面倒だから」
「はぁ、わかった」
頼みますよ。と言って菱木は意識を失うように眠った。
「……とりあえず時間潰すか」
なにもわからない土地で動くのは怖い。特に山は何処に行き着くかわからないことを、身をもって経験したことがある。
「“ヒトクイ蛍”……」
ひとまずは情報を集めてみようとタブレットを起動した。
◆◇◆
──“ヒトクイ蛍”
飛ぶ姿はホタルと変わらず、浮遊しては光る。群れをなして人を誘い喰らう──
──という、噂だった。
「え、以上?」
「“ヒトクイ蛍”は、良くも悪くも蟲ですよ」
のそりと起きた菱木は甘そうな蜂蜜色の目を擦りながら黄崋のタブレットの画面を見た。
「この山、たぶん美しい景色なのでしょうけど僕には昼でも薄暗い、煤けた山にしか見えないので余計に疲れたみたいで……急に寝てしまってすみません」
「落ち着いたならいい。もうすぐ日暮れだから飯でも食って出るか」
「そうですね。空いたペットボトルに水道のお水を七割くらい入れておいてください。使うので」
「ん」
眠っていくらか回復したとはいえ、まだ顔色が悪く見えるのは日暮れだからだろうか──。
茜空になり、いい頃合いだと古民家を出てすぐに見知らぬ光を見かけても付いていかないでくださいね。と念押しされた。
「ペットボトルにいれたお水は飲まない事。この山のものを持ち帰らない事。それから、僕の傍から離れない事。以上は必ず守ってください」
「おー、つかそんなにヤバいとこなのか」
「危ないですけど、“餌”はアンタに纏わりついてるヤツなんですけど、一応」
一応にしては緊張感がある。普段ならそこまで口酸っぱく言われる事はない。
「……“ヒトクイ蛍”が発生する場所は、自殺の名所の近くなんです。まぁ、死体は見つかってないので自殺というよりは、登山で行方不明になった人なんですけど。この山、基本的にはハイキングコースなので登山届は任意なんです。最近はハイキングだろうが、山を登るなら登山届を出しましょうと声をかけられると思います。でも昔はゆるかったので、失踪者が山に入ったかなんて、わからなかったんです」
鳥と、風でさざめく木々の音が一瞬止まる。痛いほど音のない時間は数分だったのか、一瞬だったのか判らないが押し潰されそうな重圧感があった。
「……そこにいくのか」
「はい。なので僕から離れないでくださいね」
朱と影の陰影が強くなった山の中、笑ったはずの菱木の表情は見えず、目の前にいるのが別人のような薄気味悪さを感じて思わず菱木の腕を掴む。
「……なに、どうしたんですか」
「え、いや……なんか、お前が、消えそう? で……」
「……ふ、あはは、アンタ本当は視えてるんじゃないのかって、思いますよ」
──バササササササッ
──カァァァァアァッ、カァ、カァァ、カァァァ……
突然鳥達が羽ばたき、夜目も利かないまま寝床を後にした音で菱木の笑い声以外が聞き取れなかった。
「……え?」
「なんでもありません。早く行きましょう」
「おう」
目的の滝についた頃には真っ暗になっていた。
街中ではみれないほどの星が空を彩り月が妖しく木々を照らす。
「暗いが、滝、案外ちいさいな?」
「はい、ここから落ちても人間は死ねません。滝壺も浅いので溺れ死ぬこともないですよ」
懐中電灯で照らす限りは、綺麗な水が流れる二メートルくらいの滝と木々が生い茂り、滝壺は菱木たちの足下から一メートルほど土が抉れた位置にある。おそらく土の下には川が流れているのだろうが、確認はできないが水の流れる音はする。
「……え、ここにホタル?」
「はい」
“ヒトクイ様”ですけどねと菱木が言った時。ぽつり、ぽつりと光が灯った。
懐中電灯を消せば、星と月しか見えない夜闇に光る幻想的な景色は確かに蛍に見えて美しい。
「滝壺の中から、出てきてるのか?」
ふわり、ふわりと風に乗っているように自由気ままに浮遊する光はどんどん増えていき、気がつけば隣にいる菱木の顔が見えるほど集まっていた。
「……え、これが“ヒトクイ蛍”?」
「そうです。水を汲んできたペットボトルの蓋を開けて、五匹くらい入ったら蓋を閉めてくださいね」
視界いっぱいに光の粒が、ふわりふわりと楽しそうに浮遊する景色は幻想的で思わず見とれていれば、ひとつ、ふたつと光がペットボトルの水のなかに入る。
「……昆虫じゃないな」
「蟲ですから、身体というモノはないと思いますよ」
光の粒が水のなかで灯っては消えて、なにも見えないのにその存在の息づかいを感じるのが不思議だ。
「しかし、すごい数だな」
小さな光も集まれば懐中電灯よりも明るくなる。黄崋は菱木の近くに立つと、つむじしか見えないが、なんとなく違和感があった。
「おい?」
──カナ
「呼吸できてるか?」
──カナカナカナ
「──」
「名前を呼ぶんじゃない」
──カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ
青ざめて肩で息をする菱木が黄崋の持っているペットボトルの蓋を閉め、黄崋に押し付けた。
──カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ
「──、───」
“音”が、段々大きくなっていく。
「なんだって?」
「逃げろ」
胸ぐらを掴まれ耳元でようやく声が聞こえた瞬間、光の粒が菱木を連れ去ったように、ずるりと滝壺のある穴に引きずり込まれる菱木の手を掴もうとしてナニかに押される。
「え、ちょっ」
──イッショ、いっしょ
──みぃんな いっしょ
耳元で、老人のような、子供のような、若くも老いても聞こえる“声”が囁き笑った気がした。
◆◇◆
死なないにしても、岩に落ちれば全身痛いのは常識。打撲以外の怪我をしていなさそうなだけよかったのかもしれないが、全身痛い。
「生きてますか!?」
「……ぅ、腰と、背中と……、腰が痛い」
菱木と黄崋の周りにいた、光の粒がふわり、ふわりと漂って岩穴の周りに集まっていくのが見える。
「逃げろっていったのに」
呆れたような、焦ったような声と一緒に胸ぐらを引っ張られて菱木は噛みつくようなキスをした。
「……ん、なにどういうこと」
「僕のパワーチャージ」
キスも、セックスもする。愛や恋という情よりも、喧嘩の延長のような感覚でする行為は、痛みのない暴力だと黄崋は感じているが、止めさせるつもりも、関係を絶つつもりも、今のところない。
「は?」
「あの蟲が喰らうのは、人間の“心”であり、“陽”の部分。生気とか、生きる為に必要な気力です。死にたいと願う人間は元々その“陽”の気力が足りないのに、蟲に喰われて“心”が死ぬ。度が過ぎれば、そのまま肉体だって死ぬんです」
互いの唾液で濡れた唇を拭い、菱木はニカリと笑った。
「“陽”過ぎれば“陰”を欲す。僕とアンタにくっついてるヤツが本当の“餌”です。だから、さっさと逃げようと思ってたのに……」
ペットボトルに入ったのは“陽”の気に酔って“水”に戻る為。水と人間の死体から産まれた、蟲の縄張りに入っているこの状況は死に直結する。
「いいっすか。アンタはまず死なない。僕が死にそうなら置いていってください」
蟲避けの香もタバコも使わないのか、使えないのか、菱木の考えは判らないが、黄崋にはどうすることもできない。
「あそこ、何があるんだ」
洞窟の中には岩穴があり、その中に滝の水が落ちていく。
「滝壺と死体でしょう。死体が見つからない自殺の名所はありますけどねぇ……」
ふわり、ふわりと幻想的な景色だったはずの光の粒が、苦虫を噛み締めた菱木を覆い隠す。特に抵抗せずにいる菱木にどうすればいいのかわからずその場で立ち尽くす。
──カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ
「……っ」
耳鳴りのように鳴り響く音が耳障りで、でも最近よく聞く音──ヒグラシの声だと理解した瞬間、本能的な恐怖を感じ、後退りする。
「時が止まっていた……?」
──時を喰らう蟲。
──人の心を喰らう蟲。
──ヒトクイ蛍。
蛍の時季から外れているとはいえまだまだ残暑。セミの声が聞こえてもおかしくないのに、この山では聞こえなかった。
「人間、自殺する瞬間は解放感があるかもしれないですが、根底にあるのは輪廻転生なんて夢をみている人が多いんでしょう。じゃなきゃ、こんなに蟲がいることはない」
紫煙と共に光の粒が散っていく。
「“陰”は死。“陽”は希望。この蟲は希望を持っている。ならば、この道の先には出口がありますよ」
ニヒルに笑う菱木の言葉の意味が判らない。
「んん?」
「胎内回帰。胎動巡りとか、色々いわれてますけど赤子に戻ってもう一度産まれ直すという行為を繰り返してるんです。ほら、行きますよ」
ひんやりとした手が黄崋の腕を掴み、光の粒が流れていく方へ走り出す。
「蟲のはいったペットボトルは日が登ってから回収するんで置いときましょう」
「なぁ」
「なんですか、振り返らないでくださいよ。引きずり込まれたら最悪死ぬんで」
──おぉぉい
──おぉぉい
年齢も性別もわからない声が洞窟の奥から響いてくる。不思議と応えたくなるような声で、何も知らずに山道でこの声を聞いたら、迷うのは必然かもしれない。
「怖いな」
「恐れは大切ですが、無駄に怖がる事は蟲を呼びますので止めてください。死を望んだのに来世も人間で、幸せになりたいだなんて、僕には理解できないな……」
嘲笑にも似た菱木の声に、少し驚く。死を呼び込むよりも、“来世”に希望を託すことへの嫌悪のような言葉の真意を聞くことは憚られる。
──おぉぉい
少し離れた場所から呼ばれる声は、誰かに似ている気がした。
◆◇◆
山は蛍によりその空間をとどめ、ヒトの心を対価に時を止める蟲。
“陽”を喰らいて“陰”を欲し、平等になければ天秤は傾き死ぬ。
なんて、知らぬ存ぜぬ、自然のなかならあり得ない。
薬草、資料、書物……黄崋には判らない仕事に関係するものと、テーブル、ベッドという最低限しかない菱木の部屋。常に焚かれた香呂からゆるりと煙が立ち上り、部屋に染み付いても不思議と嫌ではない香りがする時は、家主の菱木の体調が悪い印でもある。
「ひしき」
「なに」
軋むような頭痛は鎮痛剤も効かない厄介な痛みで、なにをしても無駄だと理解している男は寝込むばかり。いつもの物腰柔らかそうな口調も、微笑みも消え去る姿を見るのが案外好きだ。
「おじやでいいか?」
「ん、黄崋さんの、おじやすき……」
まろく、ゆるやかで、舌足らずのような声を聞くと、年下だったなと感じるのに、どうしようもなく甘えてしまうのは何でだろうか。
「……今回の依頼」
「自分は最悪、死ぬ覚悟はあった、ごめん」
手触りのいい金髪を、くしゃりと撫でて、指に絡めて、米神をグリグリと拳で圧を加えていく。
「いっだだ……っ」
「痛くした。お前が、オレを、無視したんだろ」
菱木が死ぬということは、黄崋の死にも直結する事に、簡単に命を捨てようとする事に腹が立ったのか、いとも簡単に、死を受け入れる事に腹が立ったのか。
「仕事、依頼主には届いたのか?」
「届いてますよ」
浅く深く息を吐き出しながら、甘い蜂蜜色の瞳をゆるりと細めた菱木が笑う。
「……知り合い、なんだよね」
「そう。普段は自分で行くんだけど、今回はちょーっと余裕がなくて無理だから依頼来た」
「そう」
仕方ない。判っている。
人間として生きているのに、人間として生きてないのが菱木だ。
「バカ。とてもバカ。死ぬなよ。他人の為に」
「……うぃっす」
甘さなんてない、ただの仕事だけの関係で、お互いに恋も愛もないのは理解している。
「そういや、泊まった家だけどさ。ずっと視線が気になったんだけど、ナニがいたの」
「……山の神。菱木さん滅茶苦茶気に入られてたから連れ帰る時、僕、最悪死ぬんじゃないかと思ったんですよ」
「うそ、風呂の中でも視線感じたんだけど」
「んふふ、こんな世界、視えない方がいい」
菱木の口癖で、視えない黄崋からすれば皮肉にも聞こえる言葉だが、菱木の本心だと気づいたのは、いつだったか。
「醜い?」
「淀んでる、けど、たまーーに凄く綺麗なモノにも会える。綺麗なモノは、できれば汚されないようにしまっておきたいと思うんだよ」
「そうなんだ」
「そう、アンタとかね」
熱で口が緩んだのか、菱木はそのまま意識を失うように眠り、一人残された黄崋は、気恥ずかしさにも似たむず痒さを感じて、どこに発散できずに悶える。悶えすぎて野菜がみじん切りになってしまった。
「……顔、みられなくてよかった」
きっと耳まで赤い。上がった熱が治まるまでは、眠り続けてほしいと真剣に思った。
◆◇◆
例えば、世界で一人だけ生き残る相手を選べるとしたら、お互いを選ぶことはない。
例えば、誰かを道ずれにして“死ね”と言われるとしたら、お互いを選ぶかもしれない。
例えば、同性で肉体関係を持てと言われたとしたら、一番に思い浮かぶのはお互いの顔だろう。
例えば、この関係に名前をつけるとしたら──
──“背中合わせの信頼(恋)”かもしれない。
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