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そしてそれはムカつくので頬っぺたをつねりあげてやる。
「ちょ、ま、いひゃいんやが?」
「ぶー、自業自得ですー」
「な、なにが?」
「おーっと? 心当たりが無いとかこれは減点ですねえ」
くすくす笑いながらけれどもその指から力を抜いて、彼の赤らんだ頬をすっと撫でて手を離した。
「他の女のこと考えてる顔してたもん」
その言葉にまた驚いたように目を丸くしている。猫だな。間違いない。
「図星でしょ?」
彼は気まずそうに目を逸らして「ん、まあ……」と呟くように口にした。
あー、図星でしたかあ。図星であって欲しくはなかったけれども仕方がない。それはそれでイジらせてもらおうと割り切ってにんまりと笑う。
「誰よ。私の知らないひと?」
そう言って迫る私に答えたのは、残念ながら彼じゃなかった。
「それはたぶんあたいだね」
「「うわあっ」」
ふたりの悲鳴のような声が綺麗にハモる。
振り返ったそこにいたのは短い銀髪に片眼鏡の女性だった。
身に纏う白い薄手のワンピースはしっとりと肌に沿うように貼り付き、私にはないオトナらしさを醸し出している。そしてベンチに腰を下ろす私たちと同じ視線の高さ。彼女は車椅子だった。
電動なのだろうか、全体に一回りは大きく、座席の下や背もたれの厚みがまったく違う。車輪カバーにはなんだかよくわからない木造の車輪のような絵が描き込まれていて、背もたれから伸びたアームが傘を差していた。
彼女は片眼鏡越しに青紫の瞳で私を見て目尻を下げる。
「とはいえ少し早かったかな? ふふ、若者の楽しみを邪魔するつもりはなかったのだけれども」
彼女が私から視線を移すと、彼はいやいやと首を横に振った。ですよね。
「彼女はクラスメイトですよ。急な雨だったんで雨宿りしてたとこにばったり」
「なるほどね。そういえばキミと初めて会ったときも雨だったねえ。もしかして雨男かい?」
「そんな自覚は無いんですけどね」
「ふぅん」
ふたりのやりとりを見て、そして聞いて、彼がさっき見ていたものは彼女なのだなと私は即座に確信した。これが女の勘ってやつよ。そしてその勘は彼女にも備わっているらしい。
「こりゃとんだ妖怪雨たらしだね」
彼のことを、そしてこの場にいるふたりの被害者のことを言っているのだろう。意味がわからなかった彼は首を傾げ、わかった私は引きつり気味の笑みを浮かべる。
「さて。お邪魔でないなら、すまないけれど少し急ぎたい。いいかい?」
彼女の言葉に彼が答えるより早く、私は首を縦に振った。
「さっき言ってたバイトの待ち合わせ、このひとでしょ? 行きなよ」
「あ、ああ……悪いな」
少し呆気に取られた様子で彼は頷いて、彼女と自分の傘へ視線をやる。きっと傘の無い私を気に掛けているんだろう。
「私はもう少し雨宿りしてくから気にしないで。天気図見たら通り雨みたいだし」
それから少し挨拶を交わして彼と彼女を見送る私。自然と彼女の後ろに立って車椅子を押す彼の姿は存外さまになっていて、それはふたりの短くないであろう付き合いを連想させた。
うぅん、さりげなく見せつけられてしまった。
残された私は雨に閉じられた屋根の下で物思いに耽る。
そっとベンチを撫でて隣へ手を伸ばすけれども、もうそこに彼は居ないし、既にぬくもりも残っていない。
「雨、やっぱ好きじゃないかも……なんてね」
こうしてまたあっさりと手のひらを返した私は、そんな軽薄さを他人事のように笑いながらひとり雨音に耳を傾けた。
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