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「ねえ日向ちゃん!こっち来て!もっと近道だよっ!」
「うん!」
世界で一番幸せな昼下がりを自分たちのものにして、高鳴る鼓動のままに、二人は駆け回っている。塀に挟まれた小道をするりと走り抜けてゆき、家々の仕切りから仕切りへひょいと跳び、まるで猫のようだった。
元々、僕は内気な性格だった。幼稚園でも馴染めず、行きたくないとぐずることが多かった。入学と同時にこの地へ越してきて、当然知らない子しかいない。そんな僕の不安の灯をふっと消してくれたのが、日向ちゃんだった。
登校初日、学校の門の前まで付き添ってくれた母親のスカートを、僕は握りしめて離せなかった。そんな僕の手を取って、教室までおんぶして連れて行ってくれたのが、初めて会う彼女だった。現実にこんなことが、果たして二つとあろうか。
そこから二人が仲良くなるのに、そう時間は要らなかった。ありったけの裏道を通って、落ちているガラス片を、宝石だと喜んでポケットに入れ、時に転んで膝を擦りむく。それが僕たち二人の放課後だった。あの頃は、ドキドキとか、ワクワクとか、そういう言葉を感情として、どんなに純粋に還元できていただろうな。
「そんなことも、あったねえ」
西日に目を細めてそう呟いた彼女は、茶色のマリンキャップを少し浮かせて、心底懐かしそうに微笑んだ。二人歩く小学校の通学路、十八歳になった今でも、同じ匂いがした。僕の通っている高校は、日向の通っている高校と違い、小学校とは逆の方向にあったため、こっちの風景を見るのは久々だった。通学路の景色と、匂いと、隣を歩く彼女の横顔と合わせると、それが鍵となって、あの頃への扉が開いて、嗚呼、僕は本当にこの子の事が好きなんだと、改めて思った。
「拾い集めたガラス片は、結局、危ないから捨てなさいって親に怒られちゃったけどな」
「んね。大事に瓶に入れて飾っていたのになあ」
「本当に宝石だって思っていたんだから可愛いよな」
そう言って、ポケットに入った小さな箱を、汗ばむ手でそっと握りしめる。中には小さな宝石の施されたリングが入っていた。今日は、二人が付き合ってから三年の記念日だった。高校に入学してすぐにできた友人に誘われて、週に一回アルバイトをしていた。その貯まっていたお金で買った。見つけた瞬間に直感がこれだと決めた。でも、二つは買えなかった。僕の貯金にそこまでの余裕はなかった。日向さえ笑ってくれれば、それでいいと思った。
二人でたわいもない話をしながら、昔の通学路をなぞって歩く。使っていたのは何年も前のことなのに、小学校までの道のりは体に染みついていた。あの頃はずっと長く感じた通学路も、今ではほんの短く感じた。
小学校の前の交差点が見えてきた時、日向がふっと笑いながら言った。
「あそこの信号さ、いっつも青の時間短くて、ここら辺から走っていったよねえ」
「懐かしいなあ、遅刻ギリギリの時は、もうほんとに必死だったよね」
「走ってみる?今」
「やだよ、疲れちゃうもん」
「えー、そんなこと言わないでよ。…そういえば、どうして子どもってあんなに体力があるんだろうね」
「確かに。無限に走れていたような気がするよな」
「もしかして、今も体力はあの時と同じにあって、走り回ること以外に体力を使うことが、ずっと増えているのかな、私たちは」
「…日向って、時々、核心めいたこと言うから意外だよね」
「それって、普段は頭空っぽって言ってる?ねえ」
「そこまでは、まさか。思ってはいても、言ってはないよ。でしょ?」
「あ、今言ったじゃん。ねえ」
「ほら、信号、青になったよ。日向ちゃん」
「見ればわかりますう」
小学校の門の前に立つと、本当に小学生になったような気分だった。奥のグラウンドからは、野球少年団の練習する声が聞こえてくる。職員玄関の前に立っているトチの木は、やっぱり変わらず大きかった。ここで日向と話しているだけで、あの六年間全部を語りつくせそうだった。
「ねえ、私あの公園行きたい。あそこの」
日向が指差したのは、小学校の裏に見える小さな公園だった。
「いいけど、どうして?」
「ずっと立ってて疲れちゃった。ベンチで座りたい」
「ついさっきまで、走ろうとか言ってたのに」
「女心と秋の空って、よく言うでしょ」
「そういう意味じゃないと思うけどな。いいよ、自販機で飲み物でも買って休もうよ」
「大賛成」
公園にある自動販売機で、僕はアイスコーヒー、日向はスポーツドリンクを買って、ベンチに二人で腰を下ろした。太陽はもうほとんど沈んでいて、公園には僕たち以外、人っ子一人いなかった。ここも、昔よく遊んだ。あの砂場、全然変わってないな…とか、あの滑り台、ペンキ塗り変えたんだ…とか、とりとめのない思いつきを往来させていた。
しばらくして、ふと、日向が口先だけを動かして訊いてきた。
「ねえ、何かいいことあった?最近」
「え、なんで。別に、何もないけど」
そう言ってから、今日日向に会えたことかな、なんて言えればかっこよかったなと、少し悔いた。
「そっか。や、普通に。気になっただけ」
「なんで気になったの?」
「なんでも」
「なんだそれ」
「気にしないの」
「自分は、気になっただけ、とか言ってたのに」
「いいから」
そこでしばらく沈黙があってから、突然、日向は立ち上がって、ブランコまで駆けて行って、立ち漕ぎ始めた。僕はそれをぼんやりと、見ていた。ただ、リングをいつ、どうやって渡そうかと頭の中で呟いていた。
そのうち、日向はブランコから飛びあがって着地して、犬のように駆けて来た。そして、ベンチにドカっと座って、息を切らした勢いのまま切り出した。
「ごめんね。中々最近会えなくて」
「仕方ないよ。キサ高のテニス部、遠征沢山あるもんね。」
日向は如月高校という、この地域でも2番目の私立高校に通っていた。文武両道を校訓として掲げていて、部活の多忙さは有名だった。
「まあ、それもあるんだけどね」
「うん?」
次に日向が口を開くまでの一瞬は、永遠のように感じられた。
それも、とはどういうことだろう。頭では一生懸命何か考えようとしているが、まるで車がスタックした時のように、思考は空回りしていた。
「あの、これ、あげる」
そう言って、日向が白のサコッシュから差し出してきたのは、ブランドの刺繍が入った小さな箱だった。それを見た瞬間、狐の仕業だろうか、僕は唇さえつままれてしまって、全く動かせなくなってしまった。
「今日で、付き合ってから三年でしょ?だからね、部活休みの日にバイトして買ったんだ。見つけた瞬間、これだと思ったの。私お金使いすぎちゃって、二つは買えなかったんだけどね。えへへ」
僕はゆっくりと瞬きをして、それを受け取った。そして、箱を開けないまま、自分のポケットからもう一つ、それと全く同じものを差し出して言った。
「あの、ね、これ、ありがとう。…これでお揃いだから、はい、あげる。」
数秒前の僕も、きっと今の日向と同じ表情をしていたのだろう。僕は、凍ったように動かない日向の唇に、そっと顔を寄せた。彼女も、ゆっくりとそれを受け入れてくれた。こんなことをするのは、初めてだった。二人の体温と、感情と、血液と、全てが混ざり合って、とても心地よかった。
「ありがとう…ありがとう…」
「わかったから。僕も、ありがとうね」
街灯照らす帰り道、涙ぐむ日向と、フワフワしながら、彼女を落ち着かせようとする僕の会話は、ずっとそんな感じだった。
日向の家の前まで来て、またねと別れようとしたとき、日向がすました顔で訊いてきた。
「ねえ、このリングの宝石、親に危ないから捨てなさい、なんて怒られないかなあ?」
「んー……」
少し考えたが、上手い返しはできそうになかった。だから、お互い見つめ合うしかなかった。そうして、二人で精いっぱい笑うしかなかった。その後、笑い涙を拭って、上擦った声で息をついて言った。
「日向さん、すんません。何か面白いこと言えたらよかったんだけど」
「いいの。面白かったから!」
そう言って、マリンキャップをくいと上げて見せてくれる笑顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
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