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煙草
「ごめんねえ。沢木さん」
「大丈夫ですよ。こっちもあとちょっとですから」
私が働く乾物問屋の3階建ての小さな自社ビルは、問屋街の隅っこの、夜になるとひとっこひとり通らない場所にあった。
ビルの1階が倉庫、3階が社長室と応接室、2階が私の詰める事務室。
夜の7時、私は一人で事務室にいた。
伝票の整理はもうちょいかかるな。ま、月末はいつもの事。
そこに社長が3階から降りてきて声をかけてくれたのだ。
「お得意の会合でさ。どうしても顔ださないと」
「はいはい。気にしないでください。行ってらっしゃい。戸締りはちゃんとしときますから」
社長が出て行った後の事務室。
私は伸びをすると、立っていって窓を開けた。
窓を開けると言ってもなにかの景色がそこにあるわけではない。隣のビルとの隙間はおよそ3、40センチほど。手が届いてしまう目の前には無機質な灰色の壁が見えるだけだ。
私は煙草が吸いたかったのだった。
社長にも何度もやめるように言われているし、健一郎にも。
「結婚するまでには、やめないと」
私は煙草に火を点け、ゆっくりと吸った。
ついでに左手でスマホをポケットから出そうとしたとき、手からスマホが逃げたのだった。
「あ」
窓からスマホが落ちてしまった。
そして、すぐ下の換気扇の屋根の上に。
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