苦情

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苦情

「雨に濡れてるなんて苦情来るの?」 「来る来る。前はなかった。今は来る。豪雨の日なんか絶対」 「厳しいね」 「ほんと。嫌になる。こっちだって濡らしたくて濡らしてるわけじゃない。一生懸命気を使って濡らさないように濡らさないようにやって、それで尚且つ濡れてしまう」 私の彼、健一郎は郵便局で働いている。 外務員。バイクに乗って手紙を配る、いわゆる郵便屋さん。 「強い雨だとビニールにくるんで手紙の束を持つんだけどさ、ポストに入れる時、手紙はどうしたって雨の下にさらされるじゃんか。コンマ数秒」 「そうだね」 「手紙を持つ手だって濡れてる」 「うんうん」 「どうがんばってもちょっとは濡れる。全く濡らさずに投函なんて至難の業」 「うん」 それまで一年ほど付き合っていた私たちは、三か月前、私が自宅を出るのを機に同棲を始めた。 親は心配するどころか喜んだ。 健一郎は31歳、郵便局勤務。固いといっちゃ固い。 私、沢木のぞみは29歳。結婚適齢期。いつまでもアイドルの追っかけばかりで親は心配していたらしい。 しかし、健一郎のこんな仕事の愚痴は、同棲して初めて聞くものだった。 「昨日はホント疲れた。3月の雨はまだ冷たい」 「だよね」 「それでもなんとか終わらせて、へろへろになって戻ってきたら苦情の電話」 「うん」 「またカッパ着て、バイク乗って謝りに行って」 「ああ」 「向こうは軒の下。俺は、雨ん中立ちんぼでさ。向こうは怒り続けて、俺は謝り続けて。まあ、謝るしかないんだけどね」 3月末の平日の朝、私たちは台所に並んで立っていた。 健一郎は、話しながら昨夜の食事の洗い物をしている。私は、それを聞きながらお味噌汁を作り、ハムエッグを焼いている。 「苦情言うやつには言ってやりたい。一度やってみろって、雨天の配達。できるんですか?全く濡らさずに投函」 「うん」 「そんな奴ほど、夢見るような目で、雨が好きです、とか言うんだ」 「うん」 「雨に濡れないですむなら俺だって、少しはそんな気持ちになれるかもしれないけどさ」
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