前編

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前編

駅前のロータリーを抜け、人通りの少ない一角を曲がると、楽器店が見える。その二階に教室はあった。 ――はあ……なんだか緊張してきたなあ。 階段を上がる足音が、不規則なリズムを刻んでいた。これから初めて会う講師の顔や名前を知らなかったとしても、会ってしまえばなんてことないだろう。入り口付近で一旦立ち止まり、深呼吸をする。初めて挨拶するときは、まず名前から。そう決めていた。 「ふぅ……。よしっ!」 ドアノブに手をかけたときだった。背後から誰かが近づいて来る気配がした。振り返ると、自分より背丈のある男性が怪訝そうにこちらを見ていた。 「あれ? もしかして……十八時からの生徒さん?」 「あ、はい! え、えっと初めまして……」 まさか廊下で挨拶する羽目になるとは、想定外だった。思わず声が裏返ってしまう。 「初めまして。まあ、とりあえず中に入って」 まだ名前も名乗らないままレッスン室へと入る。会うまでのドキドキが、彼の声を聞いて一気にすっと消えて無くなった。 「改めまして、新田春吉(にったはるよし)と言います。仕事をしながら、なにか趣味を持とうと思いまして、ピアノを始めようとこちらの教室を選びました。よろしくお願いします」 ――初っ端からなに言ってんだ、俺。当たり前のことしか言ってないじゃん。 「よろしくお願いします、新田さん。改めまして、僕はここの教室のピアノ講師を勤めている日生織人(ひなせおりと)です。えーっと……君は僕と同い年なんだね」 書類をパラパラとめくりながら、唐突に年齢を聞いてきたので俺は「え?」と聞き返してしまう。 「これから新田君って呼ばせてもらってもいいかな?」 「べ、別に構わないですけど……」 日生織人は俺と同い年だった。親しみを込めてそう呼ぶのだから、もちろん彼を受け入れた。 澄んだ声と体つきはどこか細身でありながらしまっている印象だった。ピアノを弾く指先だけでなく鍛えているんだろうなと感じた。 「じゃあ早速、なにから弾いてみる? 弾きたい曲とかあったら言ってみて」 「そうですね……。うーん、俺も中学生の頃までは実はピアノやってたんですけど、そのとき弾いてない曲がいいから……あ――」 趣味を持ちたいとは言ったものの、子供の頃にピアノを弾いていたと言いそびれていたことに、今更気づいて恥ずかしくなった。楽譜を片手に、焦ってページをめくって偶然開いた箇所は、まだ弾いたこともない馴染みのない曲だった。 「新田君、ピアノやってた時期あったの?」 「は、はい。合唱祭の伴奏をやらされた程度ですよ」 「ふーん、この曲にする?」 「そうですね。なんだか楽しそうな曲ですし」 「じゃあ、まず一回弾いてみるから、聴いてみて」 日生は両脇を締めて弾く体勢になると、偶然新田が選んだ曲を初見で弾きはじめた。 ――わあ……すごい素敵な曲だ。日生先生この曲知ってたのかな……。 俺は先生の演奏に見惚れてしまった。
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