後編

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後編

彼と初めて顔を合わせたのは学生生活にも慣れ親しんできた中頃だった。臨時で講師が途中で入れ替わり、僕は彼にピアノを教わっていた。廊下で僕の彼女と楽しげに話してるところを邪魔しないように、そっとレッスン室のドアを開けて中で待機した。 あとから彼が入ってくると、挨拶を交わす。 「初めまして、ピアノ科の日生織人です。よろしくお願いします」 「噂は聞いてるよ。君が学年トップのバイオリニストと付き合ってるんだって?」 「ま、まあ……はい」 僕は苦笑いをした。長身のこの男の名は木戸宮也実(きどみやなるみ)。彼はにこにこしながら続けて、僕の今までの課題について話す。ピアノを弾き始める前に確認しておきたいことがあったらしい。僕は大人しく彼の指示に従い、グランドピアノの前で楽譜を拡げた。 「じゃあ、一曲弾いてみて」 「……はい」 今度の課題曲であるショパンの『英雄ポロネーズ』を弾いた。慣れた手つきで、器用に曲を一通り弾きこなした。木戸宮の顔を一瞥する。彼は額に手を当て渋い顔をしていた。 「華がない」 「え?」 失敗せずに完璧に弾けたと思った。どこが悪かったのだろうか、と考えていると次に彼が放った言葉はレッスンとは全く関係ないものだった。 「彼女とは付き合ってどのくらい経つ?」 「ええと……まだ半年くらいですけど」 「キスしたことは?」 「……一度もないです」 「それは付き合ってるうちに入るのかね」 木戸宮は左右に顔を振って深い溜息をついた。こんなに表現豊かにがっかりする人は初めて見た。彼は椅子に座ったままの僕に近づいて、グランドピアノの蓋を静かに閉じた。 「私でよければ、相談に乗るよ」 彼のその言い分はどこか気高く、触れるには麗しさが漂っていた。僕は一瞬で、彼に惹かれてしまった。彼に惹きつけられるように、彼の演奏を手本にして練習を重ねては、プライベートの約束も次第に交わすようになっていった。
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