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彼女のことを相談するはずが、僕はいつの間にか彼の虜になり、次の日もレッスン以外で会う約束をしたその日には、彼女の知らないところで抱き合う間柄になった。
「お前にあの子はつり合わない」
別れろの一言はなかったがそういう意味なのだろう。彼は僕と彼女を別れさせたかっただけなのか――それなのに僕はなんで彼から離れられなくなってしまったのか。
彼は着替えを済ませて外へ出ていった。ホテルの一室で取り残された僕は、彼女に連絡を入れるのを躊躇った。僕の帰りを待つ彼女に、この状況は話せるはずもない。
――今日はここで寝るしかないよな。
僕は完全に彼に取り憑かれてしまったようだ。
試験ではバイオリン協奏曲の伴奏をやることになり、たまたま彼女とペアを組むことになった。
彼女と演奏する課題曲はベートーベンの『春』だ。
「ねえ、なんか最近木戸宮先生と親しげじゃない?」
「そう見える?」
「別に……あたしに演奏合わせてよね」
彼女の態度は少し不貞腐れてるようにも見えた。僕ははいはいと彼女と同じような目つきで返事をする。僕と木戸宮との関係を彼女に知られて困るのは僕だけではないだろう。あいつも同じだ。
ホールの扉前で待機していると、僕と彼女は呼び出される。ホールのステージから見える座席には、ふたりの姿が見えた。僕は思いがけない光景に目を丸くした。
――あれ……来る予定だったっけ。
木戸宮の隣に肩を並べて座っている男は、木戸宮が来る前まで日生にピアノを教えていた人だ。彼は彼女の演奏も聴きに来たという話だろう。
「お身体の方は?」
「お陰様で、だいぶ良くなりましたよ」
「長谷川先生がここに戻らられたということは、私はもう用済みですね……」
「そんな冷めたこと言わなくてもいいんじゃない?」
長谷川と呼ばれた男は険悪そうな顔をしていた木戸宮に微笑んでいた。その会話は僕の耳にも伝わった。木戸宮はそんなこと内心一ミリも思ってないだろう。今の僕には言わなくたって理解できた。会話が終わると、無言になって真剣な眼差しで僕らを見下ろしていた。
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