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彼女が指定の位置に立って、ふたりに一礼をする。彼女の伴奏を担当する僕も所定の位置でお辞儀をし、グランドピアノの前に座って腕を構えた。彼女がバイオリンを首に嵌めて僕に視線を向ける。僕はピアノを弾きながら彼女の視線を窺う。バイオリン協奏曲なのだから彼女のメロディーをしっかり聴いて、彼女が音を鳴らしやすいように合わせればいいだけだ。そのはずなのに――。
――なに焦ってるんだよ。こっち向いてくれよ。
ピアノの音色が彼女の鳴らすバイオリンのメロディーとだんだんずれて、テンポが合わなくなっていく。彼女が全然僕を見てくれない。彼女は僕のピアノの音を全く聴いてくれなかった。
突如、木戸宮は手を鳴らした。バラバラになって崩れていく音色が、一瞬で消えてなくなる。僕も彼女も拍手に気を取られて演奏をやめた。
「今のはなんだ。聴いてられないな。三田、ピアノの音をちゃんと聴いてたか? 減点だ」
「――ちょっと待ってください!」
彼女は声を上げてホールを出て行こうとする彼のあとを追いかける。木戸宮は出る間際に僕の顔を見上げるなり、不敵な笑みを浮かべてこう告げた。
「日生、お前も減点だ」
「……」
僕は返事もせず無言のまま椅子に座っていた。彼にそう言われ、どんな表情をして彼の顔を見ればいいかわからなかったからだ。無表情でいるわけもなくただ成績を気にして不安になっていた。
木戸宮は彼女と共にホールを先に出て行き、ホール内には僕と長谷川先生のふたりだけになった。
「日生君、せっかくの試験だけれども、今回の件は私に任せてくれないかな」
何か知ったような顔をした長谷川先生は、そう言い残して僕を置いて行った。そしてひとりになった。
「はあ……」
僕は顔に出やすいタイプなのだろうか。試験の結果が出たら長谷川先生に礼を言わなければと思いながら、その場で軽く溜息をついた。グランドピアノの蓋を閉め、椅子から立ってホールを後にする。
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