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ホールを出て突き当りの廊下に、ふたりはいた。この道を通らなければ帰れない。僕は彼女と目が合いそうになったので目を逸らした。彼女は木戸宮にキスをされていた。木戸宮が僕の気配に気づいて、抱きしめていた彼女を解放する。僕はいても立ってもいられず、木戸宮に思い切って訊いてみる。
「いつからなんだよ?」
「君と初めて会ったときからだよ。黙っていてごめんね」
「……謝るなよ」
「なに? なんの話?」
「君には関係ないよ」
木戸宮は怪訝そうな彼女を遇らう。
僕と木戸宮の会話を不審に思った彼女は、その場を立ち去った。僕たちの関係におそらく気づいてしまったのかもしれない。それにしたって、木戸宮は僕の彼女にまで手を出して何がしたいんだ。僕をどうしたいのだろう。
「僕は也実のこと信じていたのに……興味本位で近づいてきたのはお前の方じゃないか。どうして……」
つい熱くなって彼を下の名前で呼んだ。
「お前が華を知らなかったからだ。俺は植え付けてやっただけだ、華を知らないお前に」
冷徹な眼差しの木戸宮にそう言われ、少し恥ずかしくなる。泣きそうになるのを堪えて木戸宮を睨みつけた。
「ほかになにか言っておくことはあるかい?」
木戸宮は全く表情を変えなかった。レッスン室で会ったときとはまるで別人のようで、彼の言葉にはどこか力があった。魔性の彼になにも言い返せなかった。
「……成績の発表が楽しみだね。それじゃ失礼するよ」
木戸宮はその言葉を最後に僕の側を離れていった。
僕は悔しかった。彼女を置いて彼について行った自分が、手のひらを返されて彼女までも奪われてしまった。情けないとも思ったし、僕は馬鹿だった。最初から木戸宮に心を弄ばれていた。全ては決して手の届かないところにいる彼に、彼女のことを相談したのが始まりだった。
数日後、レッスン室で木戸宮に成績表を渡された。
「君に教えることはもう何も無いよ」
「……あれ、やっぱり……」
――あとで長谷川先生に会わなきゃ。
僕は成績表を見るなり微笑んだ。
木戸宮はくすんだ態度をとりながら僕にこう告げた。
「君とのレッスンはこれが最後だ」
「――っ!」
木戸宮はグランドピアノの蓋をゆっくり閉じた。初めて会ったときと同じ感覚だ。彼は僕に顔を近づけると、唇を塞いだ。やめて欲しいと言えなかった。僕はこのとき気づいた。ああ、これが別れのキスというものか、と。
「さようなら、織人」
僕はどこか憎めない木戸宮の言動に苛立ちを通り越して、虚無感さえ覚えた。彼に教わったことは一つ二つある。一つは出会ったときから彼の立ち振る舞いに憧れを持ち真似ようとしたこと。もう一つは――。
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