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僕は長谷川先生に丁寧にお辞儀をした。そんな僕の態度に長谷川先生は動じることなく「よくある話だから」といってとにかく微笑み返してくれた。彼女に潔くふられて僕は悔しさもあった。でもそれ以上に、長谷川先生の言う通り木戸宮に『英雄ポロネーズ』を披露する機会があったらいいのにと内心思っていた。木戸宮に対する憂なき熱情に嘘はなかったが、彼は僕の彼女を選んだ。本当に僕は彼女の気持ちも考えずにいて情けなかった。
僕は後悔した。彼の醸し出す異様な雰囲気にのめりこんで、憧れの先にあった感情――彼を一瞬でも好きになってしまったことを――。彼に教わったもう一つは、男を本気で好きなってしまったことだった。
十二月に入り、俺は日生織人のリサイタルに来ていた。
この間の夏の会場よりかはやや小さめだが、人は入っていてほぼ満席状態だった。
――ふう……間に合ってよかった。
席に着いたのは、ちょうど十分前のブザーが鳴る手前だった。隣で涼しい顔をしてパンフレットを眺めている男がいた。俺は思わず「あっ!」と声を漏らす。男は落ち着きのない様子の俺を一瞥する。男はとりあえず挨拶をしてくれた。
「こんにちは。どこかで一度お会いしましたっけ?」
「はい。夏に日生織人がピアノで出演していたコンサート会場で、俺慌ててチケットを落としちゃって……それ拾ってくれたの確かあなただったような気がして……。ひ、人違いでしたらすみません」
「ああ、あのときの子か。いや覚えてますよ。君も日生君のピアノ好きなんだね」
「え……あ、はい」
男が先生のことを君付けで呼んでいたことに、一瞬顔が強張る。俺はつい二週間くらい前に先生から学生時代の失恋話を聞いたばかりだったから、すぐにピンと来てしまった。もしかかしたらこの男が――と。
ブザーが鳴り、先生がステージに姿を現した。俺と隣にいた男は共に拍手で彼を迎える。
これから日生織人が演奏する演目は『英雄ポロネーズ』であった。
両腕を素早くグランドピアノ前に差し出して、両手を鍵盤にそっと添えた。そして一気に腕を振り下ろしメロディーが鳴り響いた。
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