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俺は少し隣の男の表情が気になっていたのだが、彼の演奏になるべく集中した。学生時代の頃の日生織人のピアノを聴いたことがない。だから、今の華やかで優美な音色が俺の一目惚れした先生の演奏だ。
ほんの一瞬だけ横目で隣の男を見る。男は何食わぬ顔を浮かべて彼の演奏を聴いていた。俺は男に気づかれないように静かに姿勢を正す。
――先生の演奏を聴きに来たってことは、先生に対して未練があるのか? それとも……。
日生織人の演奏が終わる。俺は拍手をして先生の姿を端まで見送った。お互いなかなか席を立とうとはせず、なにか話がしたいような雰囲気だった。
先に切り出して来たのは向こうだった。
「日生君の演奏どうだった?」
「ええと、難しいことは言えませんが、とても素敵でした。先生の演奏すっごくよかったです!」
――あ……しまった。つい口が滑ってしまった……。
俺は日生織人のことをいつもの癖で「先生」と呼んでしまった。目の前のこの男に気づかれまいと必死になり、顔に出さないように愛想笑いをするが、バレてしまったかもしれない。
「そう……。彼の演奏は昔と変わったよ……」
「そうですか……」
男は一切表情を変えずに先生の演奏を聴いていたような気がする。内心はなにか考え事をしていたのかもしれない。
「私が彼を変えたのか、それとも……もしかして君かな?」
「――!?」
どこか彼の言動は人を惑わしてくるようだった。俺と日生先生が付き合っていることすら見抜かれたかもしれない。先生の全てを知ったような顔をして話してくる。先生の失恋の元凶はこの目の前にいる男だというのに、俺はなにか彼に一言言い返せる言葉はないのか探る。
「あの……俺、あなたみたいに後悔させたくないんで……先生のこと」
「……そう」
男はそう呟くと俺の目の前から悠々と立ち去った。
俺は先生にキスをしたことを思い出す。先生を好きになったことを後悔したくない。この男にどういう気持ちで伝わったかは図れなかったけれども、言いたいことが言えてすっきりした。
――まさかこんなところで巡り会うとは……。
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