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やっと言葉にすることができて、楽譜をそっと閉じた。返事が来るのが少し怖かったので、俺は先生からわざとらしく視線を逸らす。先生は俺の言葉を聞くと目を瞑って溜息をついた。
「返信はしてないよ。向こうから一方的に来てるだけで」
「そうですか……それなら良かったです」
お互い言葉尻になんとなく重みを感じた。俺が相槌を打つと、先生はおもむろに口を開いた。
「新田君が僕のこと好きでいてくれるように、僕も一度だけ彼を好きになってしまったんだ……」
彼の手の平で躍らされていたと思うと哀しかったけどね、と先生は嘆いていた。俺は何も言い返せなくて暫く黙っていた。反射的にグランドピアノに映る先生の顔がどこか遠くを見ていた。
会話をしていたらレッスン時間の三十分が、あっという間に経ってしまい、ピアノを弾く時間がなくなってしまった。先生はさっきまでの表情とは打って変わって、明るい顔をしていた。
「発表会まで残り四回、練習頑張って来てね」
「はい。……あの、先生……」
「ん? なに?」
先生は閉め切っていた窓を開けながら返事をした。
「次からは名前で呼び合いましょ。俺、一応先生にキスしたし……」
「あははっ……一応ってどういうこと?」
冬の冷たい空気が隙間から入ってきて、針で刺されたような刺激が互いに沁みる。先生は俺の拙い言葉を冗談だと思って笑い飛ばしているのかもしれない。窓際で背筋の張った先生の後ろ姿を、俺はどうしても振り向かせたかった。
「特に深い意味はありません」
「……そっか」
俺の顔色を窺うような先生の相槌は、あの男とどこか似かよっていた。でも少し違う気もした。
「俺、先生が好きと言ってくれるまで諦めませんから!」
俺はその言葉を最後に、レッスン室を出て行った。
先生に対して初めて牙をむき出した気持ちになった。
二週間が過ぎたらまた会える。中学の同窓会が終わったらもうすぐクリスマスを迎え――会社の忘年会が終るともう年が明ける。いかにも充実していてしない。
俺は足を止めることなく、早々と家に帰った。
――年明けに三回レッスンがあったらもう発表会か。
――練習頑張らないとな……。
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