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重たいドアが開く音がした。少し憂いた表情の先生は溜息をつきながら、レッスンの準備を始めていた。先生は鞄からメトロノームを取り出したあと、赤いペンを握ろうとしたとき、それを手から滑り落とした。
「せ、先生!?」
俺は声を掛けて、転がった赤いペンを拾い上げる。
「ああ、ごめんね。ありがとう」
「い、いえ……」
ペンを渡したとき、先生は鬱ぎ込んだ顔をしていた。
先生は挨拶し忘れていたと思ったのか、咄嗟にいつもの明るい笑顔に切り替える。
「春吉君、あけましておめでとう」
「あ、あけましておめでとうございます!」
――あっ! 名前呼びに変わってる! 嬉しい……。
メールの内容を読んでくれたのかも、と期待していると、先生はピアノを教える前に一言告げた。
「春吉君、僕の都合でレッスンが休みになったの……残念に思ってるよね?」
先生の急な質問に、俺は一瞬声を詰まらせた。
「それは……残念というか、寂しかったです」
一回自分もレッスンを休みにしたことはあったから、先生が休んだことに対しては何も言いたくはなかった。それよりも――。
「寂しかった?」
「先生、俺は半年以上ピアノを続けてこられて、簡単な曲でも弾ける喜びを味わうことができてとても感動しました。でもそれ以上に織人さんのピアノに出会うことができて嬉しかったんです。それなのに……っ――!」
先生のために一生懸命練習してきたピアノをここで台無しにするようなことだけはしたくなかった。
日生織人に認められたい――好きだと認めてもらいたいだけなのに。
――織人は本当はわかっているはずなのに……。
その想いを伝え始めたら、急にまた涙がボロボロ出てきてしまった。
「は……春吉、くん……」
「織人さんが元彼の話を引き摺ってるんじゃないですか? 俺は織人さんにもっとたくさんピアノを聴いてもらいたいんです……だから――」
すみませんといって涙を袖で拭う前に本音をつい漏らしてしまった。
楽譜を拡げたのに目が滲んで視界がぼやけてしまう。
「春吉君、今日はもう無理しないで……」
――僕が也実のことを考えてる?
――そう思われていたなんて……。
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