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――こういうとき、なんて声をかけたらいいんだっけ。
蓋の閉まったままのピアノに涙が何滴か落ちてしまう。
俺はピアノを弾こうと思ったのだが、先生に楽譜を閉じられてしまう。
このままレッスン室で泣いているわけにもいかない。そう思って顔を上げた途端、先生の顔が目の前にあった。
先生の両手で顔を支えられて涙が引っ込む。
「春吉君、来週のレッスンが本当に最終だから、まだ諦めちゃダメだよ……」
先生は囁くようにそう言うと、俺にキスをしてくれた。
「せ……先生……?」
俺は椅子から立ち上がって、壁際まで後ずさりをした。
「僕が元彼に会ったの知らないのに引き摺ってるなんて言われたら、キス返さないわけにもいかないでしょ?」
先生の言い方にはどこか棘があった。
「キス返すくらいなら、レッスン休まないでくださいよ」
俺も先生を刺激したくて、つい言い返したくなる。
「ピアノ……弾かせてください」
俺は先生に励まされたから、ここで帰りたくはなかった。だが先生は心配そうな目で俺を見る。
「実は家であまり練習できてないんじゃないの?」
「どうして、そう思うんですか?」
「焦る気持ちはわかるけど、春吉君なら大丈夫だから。一旦落ち着こう? ね?」
俺は先生にピアノを弾くことを止められた。
「……織人さん。発表会が成功したら、俺、織人さんの家に行きたいです」
先生は俺のひたむきで強気な姿勢を見て息を呑んだ。
返事をするのに少し間があった。すぐに「いいよ」とは言えない理由でもあるのだろうか。
「……うん。考えておくね」
「え……はい」
――考えておくね、は「いいよ」なのか?!
――今日弾けなくても、次頑張れば……いっか。
ピアノの椅子から動けなくなってぼんやり天井を見上げていると、俺の楽譜に先生がなにか書き込みをしてくれていた。
「僕のこと先生って呼べるのは、次のレッスンと発表会までだからね」
先生はそう言って赤ペンを鞄に入れた。メトロノームは次回使うから置きっ放しにしていた。
「は……はい」
――さっきのキスできっと先生は俺のこと――。
――俺のこと好きだと認めてくれたに違いない。
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