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「僕のことならなんでも相談に乗ってくれましたもんね」
日生はそう言って、グランドピアノの目の前の椅子に腰掛ける。
「実は……この間偶然木戸宮に会ってしまって、彼に男と付き合うなんてまた失敗するって――失敗するのが怖いんだろって言われてしまって……男を好きになる自分に自信が持てなくなってしまったんです」
「木戸宮君は一応ここの卒業生だからね。君のことをまだそんな風に言ってるのか……面倒臭いねえ、全く」
長谷川は嘆いた。続けて日生の話を聞いた。
「今、好きになった人がいて、その人はレッスンに真面目でひたむきで健気なところがあって……でも僕はまだ彼の全力な気持ちに半分しか答えられていない気がするんです」
日生が一通り悩みを話終えると、長谷川は咳払いをして、少々唸る。つまり日生の悩みは、男に恋をした気持ちをないがしろにしたくないということだろう。
「一歩が踏みこめないってことかな。だよね?」
「……はい。僕、木戸宮と付き合ってた頃から変わらない部分があるんです。それが一歩踏み込んだあれです」
恥ずかしそうに両手で顔を隠しながら呟いた。木戸宮とは上手くいったのに、奥手な日生は純粋に新田にその行為を示せるのか臆病になっていた。
「まず木戸宮のことは忘れなさい」
長谷川は恥ずかしそうに語る日生を見てとにかく優しく微笑み返した。続けてアドバイスをした。
「それともう付き合っているなら怖がる必要はないと思うよ。怖がらなくていい……泣いてもいいけどその行為に責任を持ちなさいね」
長谷川は窓の外を眺めたあと、振り返って不安げな表情をしていた日生の顔を見た。
「長谷川先生……僕、もう失敗したくないです」
「そうだね……演奏は完璧なんだから、それがこれからうまくいくことを祈ってるよ」
日生は長谷川に励まされた。演奏のことではなく恋愛相談にも乗ってくれる彼のことは、昔から日生にとって心の恩師でもあった。
――長谷川先生ありがとうございました……。
校舎を出るとき、日生は一礼した。
新田春吉のためにも発表会は絶対成功させる――そう意気込むのは講師の勤めでもある。日生はそう確信した。
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