美人処女系お巡りさん(改稿版)

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 みなが注目している。  応援で来た別の交番の者はぽかんと口を開け、あっけに取られたような表情をし、駆けつけた機動捜査隊の若い隊員は頬を染め、両手で自分の頰を押さえ、所轄のベテラン刑事課員はやれやれとでも言うように眉間を押さえていた。  視線の中心、この場にいる全員の注目を集めている中で、石川静(いしかわしずか)は色白の小顔を羞恥で真っ赤に染め、怒りで表情を歪ませている。 「君に一目惚れした。僕の恋人になってほしい」  目の前でひざまづいたスーツの男は静に熱っぽい眼差しをむけ、愛の言葉を言い放つ。  しかし、そんな言葉に喜ぶわけがなかった。  場所を考えない告白、許可なく握られた手。  何より大嫌いな『一目惚れ』という言葉に反応して、頭に血が昇り詰めている。もう爆発寸前だ。  目を見開く。もう一度、握られた手の甲にキスされた瞬間、堪えていた静の怒りが弾けた。 「ふざけんな!」 「おい! 落ち着け静!」  思い切り拳を振りかぶった静を坂元が後ろから羽交い締めにして押さえる。  現場は先ほどのひったくりの現行犯逮捕劇でまだ騒然としている。  そんな中、新たな問題が起ころうとしていた。    三十分ほど前。 「山田さん、病院に行くって、何かご病気でもされてるの?」 「もう八十も越えれば身体の色んなところにガタが来るわよ。けどね、病院の先生がイケメンだから通院は楽しみよ」  うふふ、と山田タエは少女のように笑った。これくらいの軽口が言えるぐらいなので、体調に深刻な問題はないのだろう。  恋する女性はいつでも元気だし、それに綺麗だ。山田はいつも化粧をして、身なりを整えていた。 「はあ、気をつけてよ、山田さん。それと家の鍵はちゃんと閉めてよ」 「わかったわ、もう行くわね。病院の時間も迫ってきてるわ」  交番の来所者である山田は日傘を差し、外へ出ていく。八月の初め、茹だるような暑さの中だ。  静は少し心配になる。  山田と入れ替わるようにして、交番のバックヤードから相勤者の坂元が顔を出した。 「ん? 誰か来てた?」 「二丁目の山田さん、また家の鍵閉めずに出かけてたからさ、ちょっと注意してただけ」 「まあここ田舎だもんなあ、防犯意識も甘いしなあ」  そう言って、坂元は肩を竦めた。  そして静は、開きっぱなしの交番の自動ドアを手で閉めようとした。最近自動ドアは壊れてしまい、開閉の『開』は反応するのに、『閉』の方は反応しない。山田は気づかずに出て行ってしまったのだ。  外からは蝉の大合唱が聞こえる。周りはのどかな田園風景で、遠くに病院の方へ歩いていく山田の小さな背中が見えた。足取りがおぼつかないように見え、少し心配になる。山田は八十代の後期高齢者だ。この暑さは堪えるだろう。しかし病院までのバスはまだ運行されていない。  何度会計課へ言っても、予算を理由に修理してくれないドアを閉め、静は書きかけの勤務日誌に再び取り掛かった。  ここ、神田山交番の管内は藤白警察署管内の中でも屈指の田舎である。そして事案が少ないことでも有名であった。  ほとんどが山と田畑。海もあり、自然豊かな地域で、交通事故も車両と動物とがぶつかって、という場合の方が多い。野生動物は強いので、大抵車の方がへしゃげている。  そして住民も高齢者が多い。わかりやすく過疎地域であるこの辺りは特にそうだ。周りも見知った者が多く、先ほどの山田のようにちょっと出掛けるくらいなら鍵どころか、窓も開けっぱなしだ。  再三、静や坂元が防犯講話やパトロール、地区の広報誌を通じて指導をしているものの、あまり効果があるとは言い難かった。 「今日の勤務っと……」  下手をすれば当直中、何もなく終わってしまう可能性が高い。  在所勤務の欄のところに、地理案内と付け足しておき、山田の来所のことを記載しようとした時であった。  いつもつけっぱなしで、ラジオのように流していた無線から、緊張した指令が飛び込んできた。 『至急、至急、本部から藤白』  日誌を書きかけていた手を止める。そして急いで坂元を呼んだ。坂元は奥で事件書類を作成している。聞こえていないかもしれない。 「見分やってる場合じゃないぞ、至急報だ、坂元」 「聞こえてるよ、なんだろうね」  テーブルに置かれた増幅器の前に立ち、二人で首を傾げた。  通報自体珍しいのに、それに加えて至急報とは一体何が起きたのだろう。  静が春から一緒に勤務している坂元翔は今まで本部の生活安全部に属していたが、巡査部長に昇任し、任官で藤白署へやってきた。階級は静より一つ上だが、二人は同期である。 『神園町付近、ひったくり事案発生。被疑者は逃走中。被害者、怪我あり。救急車は指令室より手配済み。詳細判明次第、受理番号98番で送信予定。各局は藤白署管内神園町に進路取れ以上』 「神園町って神田山の管内だよな?」  坂元が静に確認した。まだここに来て四ヶ月の坂元は地理に疎い。 「ああ神園駅のとこだよ、行こう」 「なるほどね、飲み屋のとこだ。大体わかった、今日はおれがパト運転するわ」 「よろしく」  二人は現場へ急行した。    続報で明らかになったのは被疑者は二人組であること。一人は原付に乗って逃走したが、一人は乗り損ね、徒歩で逃げているらしい。  あとは男二人、身長何センチくらい、服装はだの、細かい情報が目撃者からもたらされる。 「被害者は通報してこないんだな」 「確かに」  坂元の呟きに助手席で静は首を傾げた。どうやら現場に被害者はいないらしい。もしかしたら徒歩で逃走したもう一人の被疑者を追いかけているのかもしれない。  現場は駅前の大通りだった。既に機動捜査隊が到着して、目撃者や通行人に事情聴取を行なっている。 「おれら、検索の方がいいな」 「そうだな……、坂元はパトで回ってくれ、俺は繁華街の方を歩いてみるよ」 「よろしく! 気をつけろよ!」  はいよ、と短く返事をして、静はパトカーの助手席から降りた。 「暑い……乗ってた方が良かったな」  しかし地理に不慣れな坂元を徒歩で行かせるわけにもいかない。パトカーにはカーナビがついているので、最悪道に迷ってもナビ通りに進めば迷子は回避できる。  まとわりつくような湿度と気温に顔を顰める。半袖の夏服の洗濯を忘れ、今日は長袖なのだが、そのことをいたく後悔した。    高卒採用枠で警察官となった静は警察学校卒業後、初め忙しい大規模署へと配属され、その次に藤白署へと配属された。現在、藤白署に来て三年目になる。  警察官六年目、今年で二十五歳。後輩は多数いるとは言え、まだまだ若いもの扱いされる年頃だ。  また静には捜査員の経験はない。地域課で、交番勤務と自ら班勤務を往復しているのだ。  刑事課や坂元がいた生活安全課、交通課、警備課、警務課と、内勤は色々あるものの、自分は巡回連絡をして地域の実態把握に努めたり、子供たちの登下校を見守ったりするような活動をする方が性に合っていると感じている。それに何より捜査よりもそちらの方が楽しかった。  (黒いTシャツ、ジーパン、男、痩せ型……やっぱりもういないな、きっと遠くに逃げてる)  発生時間から二十分ほどは経っている。正直微妙なラインだ。それに未だに被害者から通報がないことが妙に気にかかっていた。  まだ昼なので、飲み屋は軒並み閉まっている。通行人もそんなにいない。駅裏では大騒ぎになっているのに、呑気なものだ。  一通り歩き終わり、現場の方へ戻ろうとした時であった。 「離せって言ってんだよ!」 「離さないさ! 鞄を返してくれ!」  何かがぶちまけられる音と共に男性二人が言い争っている声が聞こえてきた。  静は瞬時に声と音がした方へ走る。  路地裏だ。ゴミ箱がぶちまけられ、放置されていた角材を黒いTシャツ、ジーパンの痩せ型の男が手に取っているのが見えた。  男の足元に、後ろから見ても上等なスーツを着た男性がこちらに背を向け、尻餅をついている。  男はスーツの男性に向かって、手に持った角材を振り上げる。何事か叫んでいるが、静には何を言っているのか、理解できない。  目の前で被害者が男に襲われていた。  そのことだけを理解すれば、警察官として、静は反射的に身体を動かすことができる。 「やめろ!」  左手で、無線機の緊急通報ボタンを押下しながら、右手で左腰から警棒を抜く。そして被害者を庇うようにして、男へ掴みかかった。  ピピピという無機質な電子音が無線機から流れた後、遅れて自分の怒号が無線機越しに聞こえた。  被疑者の男は静の登場に驚き、一瞬怯む。それを逃さず、手元に警棒で一発入れた。男が取り落とした角材を遠くへ蹴り捨てる。  警察学校時代、剣道、逮捕術の成績は良かった。体格が小さく、女顔で舐められないよう、人一倍訓練と練習を行った。  拳銃の成績は奮わなかったが、剣道と逮捕術の成績はどちらともトップであった。  なので静はこういう粗暴な手合いの扱いには慣れている。  被疑者の男ともみ合いになり、かぶっていた活動帽がどこかへ飛んでいってしまった。  警察官が来た、ということで、被疑者はだいぶ動揺しているようだった。隙をつき、逃げられないよう、抑えているが、最後の力を振り絞って、何をしでかすかわからない。  静は男の膝を蹴り、相手の体勢を崩すと、一気に制圧した。 「暴れるな!」 「クソっ! 離せ!」  うつ伏せで制圧し、手首を背中に固定しながら、首元を膝で押さえる。しかし相手の息を止めるわけにはいかないので、相手の顔から目を離さず、具合が悪そうだったらすぐに力を緩められるよう調整する。 「確保、確保! 被害者もいる! 場所はアーケード街! 居酒屋さちの近く!」  ひとまず無線で状況を入れた。無線会話の作法を全て無視しているが、緊急通報ボタンが押下されているので、静と本署以外は無線通話ができない。  被疑者はクソッと悪態はついているが、抵抗する気はなさそうだった。静に見つかった時点で半ば諦めていたのかもしれない。 (そうだ、被害者の怪我!)  一報では被害者は怪我をしており、指令室から救急車を手配したと聞いている。  ひどい怪我をしているなら、最悪この男は後回しにして、被害者の救護を優先しなければならない。  静は振り向き、初めて被害者の方へ顔を向けた。  上等なスーツが汚れていた。革靴も大きく傷がつき、もう使い物にはならないだろう。  三十代半ばの男性だった。スーツと同じく気品が感じられる顔立ちであった。 (めちゃくちゃかっこいいな)  一瞬、見惚れそうになるが、そんなことは瞬時に頭の隅に追いやり、呆然としている男性に静は尋ねる。 「怪我は⁉︎ 救急車なら駅前に来てる! 歩けるかっ⁉︎」  血は出ていないが、よく見れば顔に青あざができている。もしかしたらもみ合っている内に殴られたのかもしれない。  男性からは返事がなかった。しかし怯えている様子でもない。  ただ呆然と、これもまた品のいい形をした分厚い唇を少し開け、静を見つめている。 「おい! 大丈夫か! 頭でも打ったのか‼︎ 怪我は!」  相変わらず返事をしない。焦ったくなった静が、おいっ、ともう一度大きな声で呼びかけようとした時、サイレンが聞こえ、応援の警察官が続々と集まってきた。    静が取り押さえた男はひったくり犯の一人だったが、被害者の鞄は所持していなかった。逃走したもう一人が持っているのだろう。  そして被害者が怪我をしていること等、さまざまな事柄を鑑み、臨場した刑事課員によって、男は強盗の現行犯で逮捕された。 「お疲れ、大丈夫だったか?」  一番最後に応援に来たのは坂元だった。呑気に歩いてやってくる。  静は飛んでいってしまった活動帽を拾い、被り直した。 「おせーよ、何してたんだ」 「お前の緊通聞いて、やばいと思ったんだけど、道に迷っちゃってて……」  申し訳なさそうに頭を掻いている。坂元らしいと言えば坂元らしい。 「まあいいよ、近くに機捜とか刑事とかいたし。後でピザ奢れよ」 「それくらいで許してもらえるならありがたいわ」 「オレンジジュースの二リットルもつけろ」 「相変わらず綺麗な顔に似合わない子供舌だな」  『綺麗な顔』に反応し、静が坂元を睨みつけると、ごめんごめん、と言って、坂元はどこかへ行ってしまった。  そして、静は自分の頬に手で触れた。 (あいつ、俺が顔のことを言われることが一番嫌いだって知ってんのに!)  静は手のひらに力を入れ、頰を掴んだ。  母子家庭であったので、父親は知らないが、美しい母とほぼ同じ容貌、さらに小顔で色白とくれば学生時代、散々いじられて過ごしてきた。なので、もうこの手の話題はうんざりしている。  この女顔のせいで、高校在学中はなめた態度を取られ続け、そんな奴らを拳で黙らせてきた過去もある。  警察学校へ入ってからも『静御前』とあだ名をつけられてしまい、あまりにも悔しくて、人一倍努力した。  坂元は本部自らの若い隊員と何か話していた。きっと静の地雷を踏み抜いてしまったので、しばらく近寄らないでおこうと思っているのだろう。  坂元から目を外し、静は、こんな田舎には場違いなほどの気品を漂わせていた被害者の男性を探した。  案の定、すぐに見つけた。今は所轄の刑事課員と話している。一見してひどい怪我はないように見えた。 (鞄は残念だけど、酷い怪我はしてないのは良かった)  静にはひとつ反省することがある。それは被害者の怪我の有無を確認することなく、被疑者の方へ行ってしまったことだ。  最悪、被疑者が逃げても今は防犯カメラの精査や鑑識活動などを通じて、検挙に至るケースが多い。  検挙より、被害者や怪我人の救護が最優先だ。  その当たり前のことができていなかった。  頭に血が上り、冷静な判断ができなかった。  そういう反省をしながら、静が遠くから見つめていると、男性と目が合った。  やはり左頬に小さい青あざができている。痛そうだ。おそらく右手で殴られたのだろう。  男性は静に気がつくと、刑事課員との会話を中断し、こちらへ近づいてくる。静の前に立つと、優雅に微笑んだ。 (モデル……いや、王子様みたいだ)  身長は静よりも十センチ以上高いだろう。汚れているが、三揃いのグレースーツがよく似合っている。ダークブラウンの髪は後ろに撫でつけられているが、先程の騒ぎで一房、額にかかっており、それがやけにセクシーに映った。 「さっきは助けてくれてありがとう、君がいなかったら、僕はひどい怪我をしていただろう」  耳障りの良い低い声だ。気品は声色にも漂っている。  変に緊張した。別の意味で顔に血が上っているのがわかる。  何だか言葉もしどろもどろになってしまう。 「いえ……その顔の痣は……」 「ああこれはね、ひったくられた鞄を取り返そうとして、自分で転んだんだ。大したことはないよ、みっともないだろう。さっきの刑事さんにも自分で取り返そうとしないで、すぐに110番通報するように怒られちゃったんだ」  形の良い唇が緩く弧を描き、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。  ひとまず殴られたわけではなさそうだ。そこは安心する。 「ご心配ありがとう」  そう言い、被害者の男性はいきなりひざまづいた。  あまりにも動作が自然すぎて何をしているのかわからなかった。  反応が一瞬遅れた隙に手が取られる。 「えっ!」  静は驚く。固まってしまい、手を振り払うこともできない。 「かっこいいお巡りさん、僕の名前は花村天嗣(はなむらあまつぐ)と言います」  ちゅ、と優しく右手の甲にキスが落とされる。  何をされたのか理解が追いつかず、思考も身体もフリーズする。 「君に一目惚れした。僕の恋人になってほしい」    一目惚れ、という言葉が大嫌いだった。 『顔が女みたいに綺麗だったからやれると思ったけど、やっぱり男だわ、無理だったわ』と友人たちに暴露し、静を傷つけた男をボコボコにして以来、恋人はいない。ゲイだということも隠している。  自分がゲイだということを自覚したのは高校一年生の時、そして彼氏が出来たのは高校三年生の時だった。  高校時代、女顔をバカにされるのが嫌で、絡んできた奴らを拳で黙らせていたら、喧嘩は負け知らず、地元じゃ有名、みたいな存在になっていた。  そんな中、静は隣の工業高校の男子生徒に恋をしていた。しかしもちろん告白するつもりも、付き合うつもりもない。  街中で会えば何かにつけて喧嘩をして、拳を交える仲だった。何よりそいつは静の顔のことを何も言わなかったのだ。  付き合うとかそういうことはよくわからなかった。周りに自分が女性よりも男性が好きだということは隠していた。  たまに会えば適当な理由で殴り合うだけの関係で良かったのだ。  しかし関係は相手からの告白で動いた。いつものように拳を交えようとした時、『初めて喧嘩した時に一目惚れしていた。付き合って欲しい』と言われたのだ。  その時、静は自分に都合の良い解釈をしてしまった。相手は静の顔ではなく、静の喧嘩の強さに一目惚れしたのだ、と思い込んでいた。  それに自分も好きだった人で、初めて同じ性的嗜好の人と出会えたこと、初彼氏だということなど、若く、そういう面では初かった静は浮かれ、深くは考えなかった。  お互いに付き合っていることは内緒にしたかったので、一目を忍んでキスしたり、手を繋いだり、互いの取り巻きたちにバレないように変装してデートしたりと、甘酸っぱい恋愛を楽しんだ。  静は本当に彼のことが好きだったし、彼のために何でもできると思っていた。身体だっていつかは繋げたいと思い、会う時はいつそういう雰囲気になっても良いよう、準備だって欠かさなかった。  しかしいざ相手の部屋で押し倒され、服を脱ぎ、自分の裸を晒した時、相手は全く反応していなかった。  挙句の果てに相手の友人たちに静のことを話して、失敗した猥談の一つかのように扱われ、静は深く傷ついた。  結局、彼氏は静の色白で、小さくて、綺麗な顔に興味を惹かれただけだった。身体を見て、男性だと認識すると、『無理』という言葉で片付けられてしまったのだ。  あまりにも腹が立ち、相手と友人たちと取っ組み合いの喧嘩をし、全員をのし、その後は連絡も取らなかった。  それ以来、顔のことを褒めるやつ、特に一目惚れだと言い寄ってくるやつは男女ともに信じない。  また恋愛にうつつを抜かし、自分を見失うような恋もしない、と心に決めている。 「ちょっとは落ち着いたか?」 「……ああ、すまん。とめてくれてありがとう」  あの後、坂元によってパトカーの後部座席に無理やり押し入れられ、今は本署に向かっている。被疑者発見の捜査報告書と、現行犯逮捕手続書を作成するためだ。   坂元は『一目惚れ』だと告白され、怒りで我を失いかけた静を宥めてくれた。  たまにむかつくが、今は坂元の存在はありがたかった。 「とりあえずおれが課長や副署長には説明はしとくから」 「本当にすまん」  きっと下げなくても良い頭も下げなければならないだろう。それが申し訳なくて仕方ない。 「いいよ、一応おれ、お前の上司だし。まあいくら好意を持ったとはいえ、いきなりみんなの前で、手の甲にキスされたら怒るよな。ましてや、お前の嫌いな一目惚れって言葉を使ってさ」  坂元は静がゲイだということは知らない。だが、顔のことで何か言われたり、一目惚れが嫌いなことは知っている。  もやもやとした気持ちを抱え、静は膝の上に置いた拳を握りしめた。  元彼も被害者である花村のような王子様系統の雰囲気で、自分がああいう男性がタイプだということは自覚している。だが、今はそういう男性を好きになるとか、付き合いたいだとかは一切思わない。単に好みや性癖の問題だ。自分から関わりたいとも考えていない。  みなの前で告白して来たこと、『一目惚れ』だと言ったこと、この二つが重なり、咄嗟にかっとなってしまった。 (有り得ないだろ……、あんなの)  右手にちらりと目線を向ける。花村の柔らかく、温かな唇の感触がまだ残っている。  思い出すと、不用意に胸が鳴動してきた。かあ、と身体が熱くなる。  静は急いで、誤魔化すように、ごしごしと制服のズボンに、右手の甲を擦り付ける。こびりつきそうになった花村の唇の感触を忘れたかったのだ。    最近は、すこぶる機嫌が悪い。  それもこれも、一週間前に合ったひったくり事案の時のせいだ。  警察とは狭い組織で、噂はすぐに広まり、なおかつ誇大して吹聴される。 「石川くん、被害者の王子様に一目惚れだーって告白された挙句、現場でキスされたんだって?」  噂好きで有名な警務課の女性係長にそう話しかけられた時は卒倒しそうになった。誤解を解くのにはかなり苦労した。  本署に着いた後、地域課長と副署長には指導されたものの、花村から苦情も来ていないらしい。特にペナルティもなく、普段通りに勤務している。  今は当直明けである。静が残務処理をしている時だ。  副署長の席は一階にあり、警務課と交通総務課のデスクを隔て、一番奥に設置されている。  副署長の席の前に立ち、静は強く言い放った。 「絶対に、嫌です」  静の返答に、副署長は、困ったなあ、と頭を掻いた。 「だがもう石川君が住んでいる官舎は耐震の設備を満たしていないから、人は住めないんだ。急に言われて、代わりの場所も確保出来なかったところを親切で提案してくれている訳だし」 「嫌です、あいつの家で世話になるぐらいなら交番に住みます、それか野宿した方がマシです」 「それは困るなあ」  静は今、県内でも屈指のオンボロ官舎に住んでいる。  どれぐらいオンボロかというと、二階建て全部で八室あって、人が住めるのは一階の103号室だけ。あとは畳が腐っていたり、風呂が壊れていたり、なんだかんだ理由がつけられ、使用できるのがそこだけなのだ。  取り壊しは決まっており、それは来年から、という話だった。それに向けて、静も住まい探しをしている途中である。  しかし建物が古い以前に耐震性や耐久性に問題が見つかった。それで明日にでも出て行け、と言われている。  もちろん新しい住まいなんか突然見つかるはずもない。  そこで花村天嗣が、花村本邸の一室を静に貸し与える、と言い出してきたらしい。  あの事案の後、静は花村天嗣について調べた。花村家は、元はこの辺り一帯の地主の一族で、今でもかなり裕福な家系だ。天嗣は花村本家の三男で医者であった。東京の大学病院に勤めていたが辞め、最近地元へ帰ってきたらしい。  そしてこの地方では一番大きい花村総合病院に勤めている。院長は兄の花村永嗣だ。  その花村本家一族が昔、住んでいた大豪邸が本署の近くに建てられている。今は天嗣一人がそこにいる。  一度、警らの際に見たことがあるが、白く高い壁が張り巡らされ、そこだけ城のように見えた。  あんなに広い敷地に建てられていて、今は天嗣一人だけ住んでいるのだから、そりゃあ部屋は有り余っているだろう。  だが、だからと言って、一緒に住むなんてとんでもない。 「俺、説明しましたよね? いきなりそいつに手を握られて、みんなの前で告白されたって。そんな奴と一緒になんか住めませんよ」  自分は至極真っ当なことを言っていると思う。  これでどうして、副署長が困った表情をするのか、理解できない。 「花村さん、助けてもらってから、石川くんのことを大層気に入ってるんだよ」 「警察官として当たり前の行動です、そこに私情を挟まれても困ります」  被疑者に襲われている被害者を助けただけだ。静にとっては、毎日のパトロールと同じくらい当たり前の行為だった。 「いや花村さんは心配してるんだよ? 命の恩人があんな危ないところに住んでいるなんてって。部屋も親切心から言ってくださっていることで……」  副署長はいきなり声のトーンを小さくする。 「今度、新車のパトカーを寄贈してくれるそうなんだよ、あと官舎の建て替えの時の費用ももう少し多くなるよう、議員のお兄さんたちに働きかけてくれるって……」 「なっ……、そんなこと、俺には関係ないでしょう!」 「去年、パトカー水没させたのは石川くんでしょ?」 「ぐ……!」  言いたいことはあるが、静は歯を食いしばる。  パトカーを水没させたのは事実だからだ。  去年の台風の時期、川が雨によって氾濫したため、静は住民の避難誘導を行なっていた。だが見立てよりも川の増水量は多く、危険と判断され、静にも退去指示が出たのだ。  しかしまだその区画には高齢者が多く取り残されていた。それを見捨て、帰署するという選択肢はなかった。静はその指示を無視して、避難誘導に当たった。  その結果、高齢者の避難は完了したものの、静が使用していたミニパトが一台水没し、廃車となってしまった。  高齢者の避難はできたものの、指令を無視したこと、パトカーを廃車にしたこと、下手をすれば殉職事案に発展しかねないこのことは警察内部で大きく取り沙汰されてしまった。  それを庇ってくれたのが、今の副署長である。  副署長は静や坂元の元担任教官であった。可愛い教え子が身体を張って現場で戦ってくれたことを守るのは当然だ、と言ってくれた。  静は奥歯を噛み締める。激昂した静が花村に殴りかかろうとした今回のことも副署長は庇ってくれた。 (冷静になれ……、副署長の顔もある……)  花村はきっと強引な男なのだ。それに副署長は花村の機嫌をあまり損ねたくはない。そして、これで静が断れば、副署長の顔を潰すことにもなりかねない。  静は絞り出すように言った。 「……秋異動まで。それまでです。それまでは花村さんの家で世話になります」  秋異動は十月に発令されることが多い。あと二ヶ月もない。  その間だけ我慢すればいい。すぐに出て行ってやる。 「良かった、これが先方の連絡先。また自分たちでやり取りしてくれよ」  副署長から渡されたメモには花村の個人用携帯の電話番号が書かれている。 「……付き合っちゃえば? 花村さんなら大切にしてくれると思うよ」  副署長のつぶやきにかっとなり、頰に朱が差す。 「付き合いません!」  堪えきれなかった静はメモを引ったくるように奪い、足音を鳴らしながら立ち去った。 「……お世話になります、石川です」 「待っていたよ、静くん!」  花村の晴れやかな声や態度とは裏腹に、静のテンションは低い。  手を広げ、全身で喜びを表現する花村に対し、静は不機嫌さを隠そうともしない。  喜べるはずもなかった。  あの後、官舎に帰ったら、静の荷物が運び出されている最中で、度肝を抜かれた。  花村が手配した業者と車両により、家主の許可なく引越し作業が進められている。もう何だか言葉も出ず、当直明けで疲れていたが、静は業者と一緒に引越し作業を手伝った。   静の荷物は少ない。なので夕方ごろには終わり、そのまま花村邸へと向かった。  どうやら花村も今、帰宅したばかりらしい。前の時のようにスーツを着ていた。 「ちょっと外せない仕事があって、引っ越しの手伝いには行けなかったんだ。ごめんね。でも静くんの負担にはならないよう、きちんと信頼できる業者に頼んでおいたから、早く終わっただろう? ああ、これが最後の荷物なんだね? 僕が持って行ってあげる」  肩にかけたスポーツバッグを取られそうになり、静は慌てて、自分の背中にそれを隠した。 「いい! 自分で持つ!」  鋭く声を上げると、花村をきっと睨む。ついでのように差し出された手を叩いた。  静に拒否された花村は驚いたような顔をした。そしてひどく傷ついた表情をする。  そんな花村の表情を見て、静はしまった、と思ってしまった。  しかし静の意に沿わないことをし続けているのは花村の方だ。ちょっと嫌な顔をされたぐらいで何を、と思い直す。 「部屋を教えてください、疲れてるんです。休ませて欲しい」 「……そうだね。ごめん、案内するよ。どうぞあがって」  しょんぼりしてしまった花村は案内するため、先に歩いていく。明らかにしょぼくれてしまった。  少ししまった、という思いがないわけでもないが、それを振り払うように、静は頭を振る。 (全部こいつが悪い!)  きっと背中を睨みつけた。  どれだけ広い家なのだろう。平屋建てで、和風の作りの古い屋敷はどの部屋も畳である。 今は長い縁側を歩いている。 「ひとまずこの部屋を用意したんだ。来客者用の部屋で、長らく誰も使っていない。気に入らなければ、別の部屋に移ればいいよ」 「……ありがとうございます」  案内されたのは和室の一室である。おそらく花村が用意してくれた布団一式と運び込まれた静の荷物が整然と置かれている。  清潔な布団の白さを見ると、急な眠気に襲われる。静は何度も瞬きを繰り返した。 「明日は休みだろう? お腹が空いたら起きておいで。僕は居間の方にいるから」  相変わらず花村はしょげている。声に元気がない。静が疲れている、と言ったからか、すぐに部屋を出て行こうとした。  しかし、静にある疑問が生まれる。 (居間ってどこだよ)  部屋まで案内されている時、居間らしき部屋は見つからなかった。それにこの広い屋敷には、まだまだ部屋はありそうに思える。最悪、迷ってしまうのではないだろうか。  しかし、静が尋ねる前に、花村は部屋を出ていき、障子を閉めてしまった。  ぱたん、と寂しい音が鳴る。呼び止めようとしたが、疲労感が押し寄せてくる。  静はまだ畳まれたままの布団に突っ伏した。  一人になったことで、張り詰めていた緊張の糸が途切れた。 「もう無理、寝よう」  のろのろと布団を解く。そしてその上へ横になり、目を閉じた。  強い眠気の中、明らかに元気がなくなってしまった花村の様子が思い浮かんで来る。 (ちょっと露骨に態度に出しすぎたかもな……)  だが、こちらから謝るのも何だか癪だ。  静は布団に包まる。今はただ疲れており、眠気を欲していた。     当直中の地域警察官の仮眠時間は大体四時間である。休日であったり、どれだけ疲れていても、その癖が抜けず、四時間ほどで一度目が覚めてしまうことがある。  悲しい性だ。そして例に漏れず、静も四時間ほどで目が覚めてしまった。 「……眩しい」  外は真っ暗で、静は手探りで自分のスマートフォンで見つけた。  暗闇で輝く画面には『20:13』という表示が出ている。  花村邸に着いたのが大体午後四時くらいで、眠りについたのが十分から十五分頃なので、ちょうど四時間ほどで目が覚めた。  部屋は程よく冷房が効いていた。冷房をつけて寝た記憶がなく、案内された時も冷房はついていなかった。  おそらく花村がもう一度やってきて、つけてくれたのだろう。  意識がはっきりしてくる。寝る直前まで考えていた花村に対する静の態度がだんだん蘇る。 「謝った方がいいのか……?」  花村は親切で、静の鞄を持とうとしてくれていた。それを疲れて、苛立っていた自分は手まで叩いて拒否をした。しかしよく考えれば、家に住まわせてもらったり、静が寝てしまった後に様子を見にきて、冷房をつけてくれたりした人に失礼な態度をとってしまったのではないだろうか。  足に何か当たり、足元を見る。  寝ている静が蹴り飛ばしたであろうタオルケットがわだかまっている。これも寝る前にはなかったものだ。 「ああ、くそ、腹減った……、居間ってどこだよ」  なんだかんだと文句を言いつつ、起き上がる。布団をたたみ、静は部屋を出た。    いい匂いを辿り、長い廊下を彷徨っていると、言われていた居間にたどり着いた。  他の部屋は全部畳で、襖なのに、そこだけ近代的な作りになっている。 「おはよう、静くん。よく眠れたかい? そこに座っていてくれ、温め直すから」 「……どうも」  空腹でぼうっとしていた静は、花村に促され、そのままダイニングテーブルの椅子に座った。  すぐ右にはキッチンがあり、エプロンをした花村が立っている。  さすがにスーツは着ていないが、白色のポロシャツに、紺のスラックスという貴族の普段着みたいな格好に思わずため息をついてしまう。  静の家着なんて、高校の頃のジャージとしわくちゃになったヨレヨレのTシャツだ。現に今もそんな格好をしていた。 「お腹が空いてるだろうと思ってね、カレーを作ったんだ。お口に合うと良いけれど……」 「……悪いですよ」 「いいんだ、僕の分のついでみたいなものだし。遠慮なく食べて欲しい」  ついで、というぐらいなので、花村は料理をよくするのかもしれない。顔よし、家柄よし、職業よし、性格は、静にとっては難ありだが、優しそうなので、まあ良い方だろう。それに自炊もできるなんて、隙のない人物だ。 「静くんは僕の命の恩人で、愛する人だからね。あんな危ないところに住んでいるなんて知った時には心配で、心配で、仕方なくて、すぐに本部に連絡したんだ。そしたら案の定、欠陥が見つかってね。でも良かったよ、今はここのどこの部屋でも空いているから好きに使って貰えばいい。大好きな君と一緒に住めるなんて、僕としては大歓迎だ」  食事を出しながら、花村は機嫌よくしゃべっている。 (お前が好きなのは、俺の顔だろうが……)  白い皿に盛り付けられたカレー、レタスとトマトのサラダがトレーに載せられて、出てきた。それらは静の前に置かれる。  どうぞ、と言い、花村は静の前に座った。そして、ティーカップで紅茶を啜っている。  もう言い返す気力もなかった。薄々感じていたが、やはり官舎について連絡したのはこの男だった。 (いらんことを言いやがって!)  内心で悪態をつくが、当直明けで寝ずに引越し作業をした身体は休息を欲している。四時間睡眠では到底回復できていない。   言い返す気力もなく、静は手を合わせ、いただきます、と言ってからスプーンを取った。  カレーをご飯と共にひとすくいし、口に入れる。  甘口だ。辛いものや刺激物が苦手な静には好きな味付けだ。美味しい。  そう思った次の瞬間、ゴリ、と何か硬いものに歯が当たった。  眉を寄せ、その硬いものを噛み砕く。味の具合からしてにんじんだろうか。食べられないほどではないが、明らかに生煮えだ。  なんとかそれを食べ終えた後、用意されたサラダを見てみた。  レタスとトマトのシンプルなものだが、形がバラバラだ。不恰好なトマトが多い。レタスも同様である。  思わず目の前で優雅に紅茶を嗜んでいる花村とトレーに載せられた食事とを見比べてしまった。  花村は未だ得意そうな表情をしている。 「……にんじん、生だけど」 「えぇ!」  静の言葉に花村は素っ頓狂な声を出した。 「そんな……、自分で味見した時にはそんなことなかったのに」  花村は口元を押さえようとして、ティーカップが傾く。 「おい! 溢れる!」 「わ! 熱っ!」 「おいおい、大丈夫か!」  傾いたティーカップからまだ湯気の立っている中身が花村の服にぶちまけられる。  静は立ち上がり、テーブルの上の布巾を手に取って駆け寄る。 「ったく、何やってんだよ……。染み付いてとれなくなるのに。火傷してないか?」 「ああ、うん……火傷は大丈夫だよ」  ぽんぽんと上から濡れた布巾で叩くも、取れそうにない。しかも手触りからして、明らかにブランド物のポロシャツだ。  諦めきれず、しつこく布巾を叩きつける。乾いたものよりも、濡れている方がいいかもしれない、と思い、布巾を濡らしに行こうとする。  その時、花村のしょげ切っている姿が目に入ってきた。肩を落とし、俯いている。先ほどまで得意げに微笑み、弧を描いていた唇は固く引き結ばれていた。  じっと見ていると、力なく微笑まれる。 「君と一緒にいられるということで、舞い上がっていたよ。料理なんかほとんどしたことないけれど、美味しい手料理を食べさせることができれば、以前の挽回にもなるんじゃないかって思ってた。けど浅はかだったな……、結局、君に迷惑をかけただけだった」  花村はポロシャツの裾を掴み、シミを目の前に広げる。 「すまない……」  怒られた子犬のような目で見てくる花村に対して、静は何だか放っておけないような気持ちになった。  そして案外、この王子様然とした御曹司が万能ではないことを知り、意外に思った。  人間、誰しも不得意なことはある。  それが花村にとっては料理や家事なのかもしれない。  立ち上がった拍子にシンクが見えた。焦げ付いた鍋やフライパンが水にさらされている。どれも花村が試行錯誤した後だろう。  花村は静を純粋に歓迎し、喜ばせようとしていただけなのだ。  その感情を無碍に扱えるほど、冷徹な心は持っていない。 (いきなり告白して、手にキスしてくる変態だけど、可愛いところもあるんだなあ……) 「あーもう!」  静はがしがしと乱暴に頭をかく。そして花村の前に立った。 「わかったよ、休みの日は俺が料理してやる! 自炊してたからそれなりに料理はできるからな!」 「でも……」 「でももクソもない! 基本がなってないんだよ、できるようになりたければ、俺と一緒にキッチンに立て。教えてやるから」 「君は……僕のことを嫌わずにいてくれるのかい?」  花村のことは嫌いではない。気に食わなかっただけだ。  そこの誤解も解いておきたい。 「嫌いとかじゃあない。いきなり人前で手にキスされて、好きだなんて言われても混乱するだけだ。それに俺は一目惚れだって言われるのが大嫌いなんだ。そこは嫌いだ、覚えておいてくれ」  詳しい理由を言うつもりは今のところない。 「とにかく……この前はいくら混乱していたとは言え、いきなり殴りかかって悪かった。すまん。それに俺のために部屋を用意してくれたり、冷房をつけてくれたり、タオルケットをかけてくれたり、料理を振る舞ってくれたりしてくれたことには感謝する。ありがとう」  けじめとメリハリはきっちりつける。静は花村に頭を下げた。 「とんでもない。僕の方こそ、助けてもらった君に恥をかかせてすまなかった。それに今日は料理もうまくできなかったし、紅茶もこぼして君に拭いてもらってしまったし……本当にすまない!」  花村も慌てて立ち上がり、静に頭を下げる。  その花村の様子に静は好感を持った。だからと言って、花村の恋愛的な好意には応えられないが。 「いいよ、とりあえずカレーを温め直そう。横で見ててくれ」 「わかった、僕に色々教えてくれないか?」  互いに変な誤解は解けた気がした。花村ももうしょげかえってはいない。表情も明るい。  何だかその笑顔を見て嬉しくなり、静は心が温かくなった。    花村邸での生活も一週間ほどが経つ。だんだんその生活にも慣れてきていた。花村との関係も概ね良好である。  花村は静の読み通り、家事全般が苦手であった。どうやら東京にいた時からハウスキーパーやお手伝いさんがいるような環境で育っているので、そもそもしたことがなかったようだった。  ここでも頼みたかったようだが、急遽ここに住むことが決まったので、間に合わなかったらしい。  住まわせてもらっているので、家事は静がすると進言したものの、苦手を克服したいと言われ、特に料理はなるべく一緒に作っていた。  一つだけ困っているのは、家で花村が静への好意を一切隠さないところだ。一目惚れというワードは言わなくなったものの、昨日は早く僕のことも好きになってほしい、と手を握られた。キスを無理やりしてきたり、身体を迫られたりだとかは一切ない。そういう紳士的な態度も好感が持てる一因だった。それに真剣な顔で、しかも好みのタイプに何度も告白されると変な気持ちになってくる。  今日は当直。今は日付も変わって、午前一時頃だ。  深夜にもなってくると、腹が空いてくる。お菓子で凌ぐ人もいるが、静はきちんとした夜食を食べることにしていた。そちらの方が深夜に何かあった際、力が出るからだ。  奥の休憩室で、静は夜食の弁当を広げる。これは花村が作ったものだった。 「出た、愛妻弁当」 「うるさい」  そういう坂元はカップラーメンを啜っている。同棲中の彼女は一切料理をしてくれないらしい。  静も花村と一緒に住むまでは似たり寄ったりな食生活だった。しかし料理の上達した花村が弁当を持たせてくれるようになったのだ。 「いただきます」  少し焦げた卵焼きを口に入れる。砂糖を混ぜた甘い卵焼きだ。美味しい。  あとはミートボールや串に刺されたトマトときゅうり、これまた甘い鶏そぼろ。全てが手作りではないが、どれも舌に合う。 「満足そうな顔して食べて……あんなに嫌だって騒いでたのに」 「いいんだよ、あいつ、俺に夢中だから」 「おいおい、あんま弄んでやるなよ」  串を咥えながら、冗談めかして言えば、坂元が肩をすくめる。  だがこれは冗談でも何でもなく、静に自覚があるほど、花村は静に夢中なように感じた。  しかし花村が好きなのは、一目惚れした静の綺麗な顔だ。ゲイの静とは違って、元々花村は女性が恋愛対象であったようなので、男の身体を見たら目が覚める可能性がある。  以前のような思いはしたくない。いくら好きだ、と言い寄られても絶対に好きになったりしないことを心に誓っている。  ちょうど二人が食事を終えた時、内線電話が鳴った。  変死だった。神田山交番の管内で独居の老人が部屋で亡くなっているのが発見されたらしい。刑事課が臨場したところ、既に亡くなっているのを確認。また遺体に傷や怪我などはなく、部屋も荒らされたり、侵入された跡はないことから病死だと思われるが、検視をするので警察医の立ち会いが必要となる。  その警察医の送迎を坂元と静にお願いしたいとのことであった。  今日の警察医の当番は花村である。  現場に行くわけでもない。警察医の送迎だけなので、作成書類を溜め込んでいる坂元を交番に置いていき、静ひとりで行くことにした。  それに坂元と花村を会わせたくない。両方が両方とも、余計なことをいう気がしている。  パトカーで花村邸へと向かう。門の前にパトカーを駐車し、インターフォンを押すが、花村が出てくる気配はない。  内勤当直から、検視の立ち合い要請の連絡があったはずだ。 「もしかしてあいつ、二度寝したのか?」  インターフォンを三回押し、十分待ったが、何の音もしない。 「なめてんのか、叩き起こしてやる」  静は玄関から、邸内へと入った。    花村の寝室は居間の近くにあり、そこは洋室であった。昔は花村の祖父の書斎であったらしい。  ノックしても返事がなかったので、勝手に中へ入った。  大きく古い本棚はそのまま置いてある。そのすぐ側に置かれたベッドでパジャマ姿の花村がうつ伏せで寝ていた。伸ばされた手にはスマートフォンが握りしめられている。 「……完全に二度寝だな。おい、起きろ」  静は肩を叩く。身じろぎはするが、起きる様子はない。  次に身体を揺り動かす。眉根を寄せ、不機嫌そうな顔をしただけで、目を開けもしなかった。 「こんなに起きないもんか?」  焦ったくなった静が布団を剥ぎ、手首も持って、ベッドから引き摺り出そうとした時だった。  手首を強い力で持たれ、逆にベッドへ引きずり込まれる。一瞬、何が起こったのかわからなかった静はなすがまま、花村の腕の中におさめられ、ベッドに押し倒されていた。  耐刃防護衣や無線機、警棒、拳銃などフル装備の男性警察官を引き摺り込むなんて、どれだけ力が強いのだろう。 「おい! 何を寝惚けてっ……んぅう!」  呆気に取られていると、いきなり花村に唇を塞がれ、静は驚愕した。   入り込んできた花村の舌が歯列をなぞり、逃げる静の舌を追いかける。手首はがっちりと抑え込まれ、シーツに押し付けられていた。  跳ね除けようとしても、自分よりも力の強い相手にマウントを取られている状態ではうまく抜け出せない。関節技をかけようとするが、それでは花村を怪我させてしまう可能性がある。  どうしよう、どうしよう、と悩んでいる内に巧みなキスと舌使いに意識が奪われていった。  静のキスの経験と言えば、高校生の時、当時の彼氏としたキスで止まっている。  歯がガチガチと何度もあたるような、余裕も、技術も何もないようなものだ。だが、好きな人としていたので、それはそれで気持ちよかった。  だが今は、その時とは比にもならないほどの巧みなキスを受けている。甘噛みされた舌が甘く痺れた。思わず花村の服を強く握ってしまう。 「ん、くっ、ふぁ……ぅ、んぅ」  息継ぎがうまくできず、酸欠で頭がぼうっとしてくる。  だが気持ちいい。とろけるようなキスだ。ずっとしていたいような心地になってくる。 「静……」  湿った吐息と共に名前を囁かれた。しかし怪しげに腰を撫でられた時、静は我に返った。  キスに意識を奪われている場合ではない。静は二度寝した花村を起こしにきたのだ。 「この野郎!」  静は花村を蹴り飛ばし、ベッドから叩き落とした。 「はっ、強盗⁉︎」  ベッドから落ちた衝撃で、花村は目を覚ます。  寝起きでうまく目が見えないのか、手探りで何かを探している。  静は互いの唾液でべたつく唇を腕で男らしく拭うと、花村が探しているスマートフォンを投げつけた。 「あいたっ!」 「検視だ! 電話あったろ! さっさと準備しろ!」  そう言うと急いで花村の部屋を出ていく。目の前に停車しているパトカーでイライラしながら待っていると、数分後に慌てた花村が出てきた。     神田山交番の管内でも特に山奥の方、ほとんど他県との境で、山一つ越えたところが現場であった。  昔ながらの古くさい家屋の中へ入っていく。  ほとんど病死だと分かっているが、万が一があるため、やはり検視には医師の診断が必要になる。 「遅くなりました、花村です」 「先生、お待ちしていました」  花村が刑事当直に挨拶をしている。先ほどまでの寝ぼけ具合から一転して、医師の顔になっていた。  パトカーの中で花村は上機嫌に話をしていた。  なんでも、静とキスをして、静が応えてくれる夢を見たのだという。  それを聞き、今度こそぶん殴ってやろうか、と怒りをみなぎらせた。  キスは現実だ。気持ちよくて、ちょっと自分から舌を絡ませてしまったのも事実で、静はそのことに自己嫌悪した。  花村はパトカーの中の締まりのない顔とは違い、今はキリッと真面目そうな顔をしている。服装も、ポロシャツにチノパンとか、ラフな格好で良いのに、わざわざスーツを着用しているところに花村らしい真面目さを感じた。  医師の診断が出るまでは事件の可能性もあるので、本来ならば現場保存をしなければならない。  しかし貴重品等も家の中にあり、捜査員ではない静から見ても、事件性は薄いように感じられた。  ふと思い立ち、静は花村の仕事ぶりを見てみようと思った。寝ぼけて間違ったことをすれば、そのことでからかってやろう。  思えば家にいる花村しか見たことがない。単純な興味もある。 「ちょっと外、見ててよ。俺、中にいるから」  先に現場臨場していた他の交番の後輩に一声かけると、静は花村と刑事当直の後を追う。  一人暮らしと聞いていたが、中は整然としていた。荷物は多いが、汚く感じることもない。故人はきっと綺麗好きだったんだろう。  奥にある寝室のベッドの上で高齢の男性が横たわっている。この方が変死していた男性だった。  安らかな顔をしていた。発見した息子によると、ここで眠るように亡くなっていたとのことだった。  今は部屋に刑事課員ふたりと花村、静の四人がいる。 「この方ですね」  花村は故人に向けて手を合わせ、小さく頭を下げた。  そして、お願いしますね、と言ってから、ふたりの刑事課員に指示を出していく。 (……ちゃんとしてるんだな)  死者に向けて手を合わせる、という行為は一見して普通の良識ある行動のように思えるが、それをこともなげにしてみせた花村を静は意外に思ったのだ。  静も花村の姿を見て、慌てて手を合わせた。  警察官も医師も、人の死というものに慣れ切っている。高齢化が進む社会において、今日のような通報は珍しくない。この人はおそらく死後すぐに発見されたから良い方だろう。風呂場で突然死し、何日も煮詰められてから発見された人を見たことがあるが、ひどい状態であった。  数をこなしていくほど、いろいろなものは薄れていくものだ。若い刑事課員が、最初は敬意を持って、ご遺体に手を合わせていたのに、慣れてくるにつれ、めんどくさそうな顔をするだけになっていくのを何度も見てきた。  医師である花村は警察官よりももっと死が身近だろう。  静が見てきた警察医はこんな夜中に呼び出されると不機嫌そうな顔をして、送迎の静たちや刑事当直に対して横柄な態度を取っていることが多かった。もちろんご遺体に手を合わせるといった行動をする人もほとんどいなかった。  花村は丁寧な手つきでご遺体に触れている。 「この方は循環器系の疾患をお持ちですね。原因はそれです。隣県にご家族の方がいらっしゃるはずですが、ご連絡は?」 「発見したのが息子さんなので、連絡はついています」  「そうですか。ご遺体に、特に不自然な点は見当たりません。司法解剖は必要ないでしょう。息子さんに返してあげてください」 「わかりました。ご家族の方にもそう伝えておきます」  花村はもう一度、ご遺体に手を合わせてから部屋を退室した。    検視が無事終了し、午前三時ごろである。  静は花村を送り届けるためにパトカーを運転していた。 「なんで、故人の家族が隣の県にいることを知ってたんだ?」  後部座席の花村に対して話しかける。  検視を見ていて、不思議に思ったことだった。 「あの方を一度だけ、診察したことがあるんだ。心臓に病を抱えていて、週一で通院するように進言したんだけど、足が悪くて遠いからって断られてしまって。だったら往診するって言ったんだけど、こんな遠いところまで来てもらうのは先生に悪いって言われてしまったんだよ。入院も嫌がっていたし」  バックミラー越しに花村の顔を見れば残念そうな顔をしていた。 「今度、病院に来てもらった時にもう一度、入院を勧めるつもりだったんだ。残念だよ。せめて週一で診察できていれば、もう少し延命できたのかもしれないから」  そうか、と一言返して、静は前を向く。 「僕はね、こういうことを少しでもなくすためにここに帰ってきたんだ」 「こういう……」  一瞬、間が空く。花村はゆっくりと口を開いた。 「過疎地域の医療崩壊を防ぐことだよ。僕が生まれ育ったこの地域は今、医療面において危機的な状況に瀕している。圧倒的に医師や病院の数が足りない」   静の脳裏に炎天下の中をおぼつかない足取りで、遠い病院へと歩いていった山田の姿が過った。 「もっと頑張らないとね。この地域のために僕は何かできることをしたいんだ」  花村が持っている『この地域のために何かできることをしたい』という思いは、静と同じ類のもののように思えた。  それに気がつくと、何だか親近感が湧く。今日の検視の時の態度や最近の家事を頑張っていることも思い出してくる。 (やっぱ良いやつだな……)  迎えに行った際、寝ぼけた花村にキスをされ、押し倒された際、思い切り腹を蹴り飛ばしてしまった。  静はやりすぎてしまったかも、という心境になってくる。しかし素直に謝罪するのも何だか釈然としない。 「あー、なんていうか真面目に色々考えてるんだな」  そう言って静は一度、口を閉じた。 「ちょっとだけ見直した。すごいよ」  言い終えると、何だか緊張してきた。気恥ずかしさで顔が赤くなる。  これ以上は言葉が出そうになく、花村の返答を待つ。  しかし何も返事は来ない。静の予想では大はしゃぎして、ペラペラと一人で喜びと静への愛を語り出すのでは、と思っていたが、そんなこともない。  そっとバックミラーで確認する。  花村は完全に寝落ちていた。静の話は全く聞こえていないようだ。  赤信号だ。腹が立ち、静は思いりブレーキを踏んでやったが、花村は起きなかった。    無事に当直が終わり、花村邸へと帰宅した時、ちょうど正午ごろであった。  夜の検視で疲れているのか、花村はまだ寝ているようで、いつもならある熱烈なお出迎えがない。 「……飯でも作っておいてやるか」  どうせあの調子なら朝も起きずに眠り続けているのだろう。花村も今日は休みのはずだ。  静はシャワーを浴びると、着替えてキッチンに立つ。  冷蔵庫の中を適当に漁り、残り物と古くなってきた食材を取り出す。そしてそれらを適当な大きさに切り、炒めて、焼きそばとチャーハンを作った。  花村の分はチンしてすぐに食べられるように別の皿に盛り付ける。  ラップをかけようとした時、ドアが開き、花村がやってきた。 「ああ、おかえり静くん」 「ただいま」  料理をしている静を見て、花村は慌てている。 「当直明けで疲れているだろう? 食事を作らせてしまってすまない」 「いいよ、あんたも同じだし。もうできてるよ。座っててくれ」  花村はまだ若干ぼうっとしているように見える。寝起きなのかもしれない。  服装はいつもと同じで、ポロシャツにスラックスだが、胸元のボタンが掛け違えられているのに気がついた。 「ボタン、かけ違えてんぞ」  胸元を指さすと、慌てて直そうとしている。しかし指がもつれていて、うまくいっていなかった。 「あれ、あれ?」  見ていて焦ったい。静は花村に近づく。 「やってやる、動くなよ」  ポロシャツのボタンは三つしかない。 「こんなのどうやったら掛け違えるんだよ……」 「すまない、ありがとう」  ボタンを直し終わり、ふと顔を上にあげると、柔和に微笑む花村の顔が思ったよりも近くにあった。 「あっ」  不意にキスされた時のことを思い出す。不用意に胸が鳴動し、顔に熱が集まってくるのが分かった。 「どうしたんだい? 顔が真っ赤だよ」  今度は心配そうな顔で覗き込まれそうになる。 「なんでもない! 飯作ったから! 座って待ってろ!」  静は視線に背を向け、キッチンへと小走りで入っていく。  夜にされたキスの感触が蘇ってきて、静は何度も手の甲で唇を拭った。 (くそ……)  キスは嫌ではなかった。それが静の中で衝撃的な事実として、驚きながらも受け入れられている。 (あいつは俺の顔が好きなんだっ)  だからといって、この感情を認めることができるのか、ということは別問題であった。  キスまでは、元彼もできた。そして好きだということを認めてしまえば、きっと静はそれ以上を求めてしまう。  抱いてほしい。身体に触れて欲しいし、触れたい。だけど相手が応えてくれるかどうかはわからない。 「……好きじゃない、好きになんかならない」 「どうしたんだい? ぶつぶつ言って。何か手伝おうか?」  花村から声が掛けられ、ハッとする。声が出ていたことに驚いたが、内容は聞こえていなかったようだ。 「すぐに持っていく!」  芽生えている好意を否定するように、大きな声を出した。    ランドセルを背負った子供たちはパトカーを見ると、無邪気に手を振ったり、敬礼をしてきたりする。  そんな子供たちに手を振り返したり、返礼をしたりして、暖かな目で見守っていた。  夕方のパトロールは重要な任務の一つだ。  坂元は別の場所で巡回連絡を行っているので、今は静ひとりである。 (南小の子供たちか……、そういえば花村も今日はこの近くで往診してるって言ってたな)  静は朝の花村の様子を無意識に思い出す。しかしすぐにかき消した。  花村のことが好きかもしれない、と思い始めてから、必死にその好意を否定している。  だが必死に否定する、ということ自体が既に花村への好意の証明となっていて、それに気がついた時、静は辛かった。  だって花村は一目惚れした静の顔が好きなだけなのだ。 (あいつの顔とか……かっこいいと思うけど)  だが拒否された時のことを考えると、素直に受け止められない。  今は余さず、静に向けられている愛情が『無理』になる瞬間には二度と立ち会いたくなかった。  交差点を右折した時、パトカーに気がついた小学生たちが静たちに手を振った。手を振り返そうとして、様子がなんだか違うことに気がつく。  手を振っているのではなく、こっちへ来て、という風に手をこまねいているのだ。  子供たちの側に停車し、窓を開ける。 「どうした? なんかあったのか?」  静が子供たちに尋ねる。すると上級生っぽい子が代表して、口を開く。 「あそこ、山田のおばあちゃんの家なんだけど、もう三日も姿を見てないの。いつも登下校の時は見守りをしてくれてるのに」  山田のおばあちゃんとは、交番にもよく差し入れをしてくれる山田タエのことだ。  そういえば最近、交番にも来ていない。  その子は俯き、心配そうな顔をしている。 「それに郵便受けに新聞も溜まってて……」  話を聞き、嫌な予感がした。 「ありがとう、山田さんはお巡りさんたちも知ってるから。一度尋ねてみるよ」 「お願いします」  静の言葉に小学生たちは少し安心したようだった。ペコリと頭を下げてそれぞれ下校していく。 「山田さん、通院してたみたいだし、病気とかあるのかも……」  最後に会った時、山田は病院へ向かっていた。何か病気が見つかったからかもしれない。  山田を最近見かけていないことに静は気がついていた。しかし日々の業務や書類仕事に忙殺されて、巡回連絡ができていなかった。  巡回連絡は地域課員の最も重要な仕事の一つである。  それを他業務の忙しさにかまけて、疎かにしてしまっていた。  静はパトカーを山田の家の方へ進行させた。  確かに郵便受けには新聞が溜まっている。三日間姿を見ない、と言っていたが、郵便受けの中には四日分の新聞が入っていた。  インターフォンを押しても返事はない。こんな時に限って、玄関に鍵もかかっていた。 (どうするかな………)  庭の方に大きな窓があったはずだ。そこから声をかけてみて、ダメなら近所で聞き込みでもした方がいい。  静が歩き出そうとした時、声が掛けられた。 「静くん!」 「あ、花村!」  白衣を着て、ビジネスバッグを持った花村が近づいてくる。 「奇遇だね! この辺りをパトロールしてくれていたんだ。僕も今日、往診があってさ。もう終わったんだけど」 「そうなんだ……、お疲れ様」 「ありがとう。仕事中の君にまた出会えるなんて嬉しいな」 「俺は恥ずかしいからあんまり会いたくないよ」  花村と仕事中に会うと、告白されたり、いきなりキスされたりするので、ロクな思い出がない。  しかし言葉とは裏腹に、変に鼓動が高鳴っている。静は目を逸らした。 「で、どうしたんだい? ここって山田さんの家だよね?」  『山田』と書かれた表札に花村が触れている。 「山田さんのこと、何か知ってるのか?」 「ああ、患者さんだよ。往診にも来たことがあるし」  それなら何か知っているかもしれない。静は小学生たちからの通報のことを花村に話した。  「いや旅行とかは知らないなあ、ああでも明日診察の予定が入っていたよ、確かね」  花村の返答にうーん、と唸る。ともかく庭側の掃き出し窓で部屋の様子を見てみるのが一番かもしれない。 「わかった。ありがとう。それじゃ」 「いいや、僕も一緒に行くよ。心配だし」  花村の言葉に静は驚いた。まさかついてくるとは思わなかったのだ。 「いいよ、警察が通報を受けたんだ。何かあったら病院へ連絡するし」 「何かあった時のためにも僕がいた方が良いだろう。救急車を呼ぶよりも早い」  ぐうの音も出ない正論だ。確かに本当に倒れていたら、花村がいた方がいい。 「鍵は開いてない。とりあえず庭の方へ回る。あっちに部屋が見える大きな掃き出し窓がついてるんだ」  二人はカーポートの柵を乗り越え、庭へと回る。  そこで夏の暑い日、山田に麦茶をご馳走されながら、世間話や心配事などを聞いていた。「静ちゃんが来てくれるから、寂しくないわ」  静の家族は母親だけなので、祖母も祖父も知らない。  もし自分に『おばあちゃん』という存在がいたら、こういう人なのかもしれない。そう思わせてくれたのが、山田であった。  無事であってほしい。ただの杞憂で、新聞を取り忘れていただけとか、旅行に行っていただけとか、そんな取り止めもない理由であって欲しい、と心から思った。  庭に出て、大きな窓から室内が見える。  カーテンは大きく開かれていた。リビングには山田が倒れていた。 「くそ! 窓を割る!」 「とりあえず救急車を呼ぶよ!」  静は手に持ったガラスクラッシャーでリビングの窓を叩き割る。クレセント錠付近を割り、できた隙間から急いで鍵を開けようとすると鋭いガラスの切り口で指を切ってしまった。 「痛っ!」  しかしそんなことに構っていられない。 「山田さん!」  室内にはむっとした熱気がこもっていた。  急いで駆け寄り、山田の身体に触れると、とても熱を持っている。かろうじて脈と息はあった。だが意識はない。  このままでは山田が死んでしまうかもしれない。  静はさっと顔を青ざめさせた。 (このままでは、きっと死んでしまう)  どうすればいい。  そうだ、ここには花村がいる。花村なら助けてくれるかもしれない。 「ええ、脈は弱いですがあります。息もかなりか細いが……、ある」  スマートフォンのスピーカーで救急と喋りながら、花村が山田の身体に触れている。 「脈がかなり不規則だ……、熱中症を起こしている可能性もあるね、うん、それも用意しといて、いやそっちのは三十だけでいい」 「は、花村……」 「静くんは山田さんに声をかけ続けてあげて。少しでも反応したら教えてくれ」 「わかった……!」  山田の手に触れる。ひどく熱い。それに表情は苦しそうだ。 「山田さん、俺だよ! 交番の石川静! もし聞こえてたら返事して! 声が出ないなら手を握って!」  何度かそうやって繰り返すと、一度だけ手に力が入った。 「手に力が! ちょっとぎゅって」 「うん、もう大丈夫だよ」 「あ」  花村は後ろから静の手をとる。そして山田から離れさせた。 「救急隊です! 要救助者はどこですか?」  青色のディスポーザブルガウンを着た救急隊員が部屋に入り、山田へ適切な処置を施していく。 「僕は救急車で一緒に病院へ行くよ」  振り向くと、額に汗を浮かせた花村が静を見ている。  救急車は来て、花村が処置をしてくれたが、まだ油断はできない。 (死んじゃったらどうしよう)  そういう不安が花村に伝わったのかもしれない。 「もう大丈夫だよ、山田さんは助かる」  不安げな静の頰を撫で、花村は山田と一緒に救急車で病院へと向かって行った。    当直明け、何もする気は起こらず、静はシャワーを浴びた後、与えられた自室の布団の中にこもっていた。  山田はあの後、花村総合病院へと搬送された。意識を取り戻したが、話を聞ける状態ではなく、静は坂元に迎えに来てもらい帰署した。  後に刑事課員が教えてくれたが、熱中症と脱水症状で山田は倒れていたらしい。今は容態も安定しており、誰かに襲われて気を失ったということもないことが判明している。  そこは安心した。しかし自分を責める気持ちがやまない。  地域警察官として、自分は何をしていたのだろう。  まず、気になっていたのに巡回連絡を怠っていた。もっと早めに山田の家に行けば具合が悪くなる前に見つけられたかもしれない。  そして花村がいてよかったという安心感を覚えていた。  もう大丈夫だよ、と頰を撫でられた手が心地よかった。  静は自分で自分の頰を押さえる。  いつもなら振り払っていたに違いない。なのにあの時はそれができなくて、もっと撫でてほしいなんて思ってしまって。  もう隠せないほど、花村への想いが育っていることには気がついていた。  花村は好意を隠そうとしない。静が嫌だ、と言ったので、一目惚れという言葉は使わないが、好きだ、愛している、とストレートに伝えてくる。ちょっと強引なところもあるが。  医者で、何でも出来そうな顔をしているのに、家事や料理が全く出来ないところが面白かった。だけどそれを努力でカバーしようと、静に教えを乞い、今では弁当まで持たせてくれている。  家では柔らかで、和やかな表情と雰囲気をしているのに、仕事中はキリッとしている。そのギャップが可愛らしくて仕方ない。  でも、きっと静が男性だと認識したら、花村は離れていくだろう。 (くそ、恋愛なんか絶対しないって決めたのに)  ふと寝ぼけた花村からキスされた時のことを思い出した。  あのキスの続きを強請ったら、どうなるのだろう。  あのまま気持ちよくて、優しいキスを続けてくれて、その先の気持ちいいこともしてくれるだろうか。  しかし、元彼のように『無理』だと片付けられてしまったら、どうしよう。今度こそ、立ち直れないかもしれない。  無意識に指先で、自分の唇に触れた。柔らかく、そして熱い。 「あ……」  身体の奥のわだかまった熱がだんだん身体を支配していく。  花村とキスしたい。キスがダメなら抱きしめるだけでもいい。  いや、そこまで高望みはしないから、もう一度頬に触れてくれるだけでもいい。  けれど、花村は静のことを仕事ができない警察官だと思ったかもしれない。  花村に言われた通り、必死に山田に声をかけていた。それだけに夢中になり、花村に引き剥がされるまで救急隊が到着したことにも気がつかなかったのだ。  静は枕を抱きしめた。何だか心細かった。  特に花村にはそういう風に思われたくはない、と思った。 「花村……」  思わず呟く。  呼んでも、来るわけがない。今、一番会いたくて、会いたくない相手だ。  思わず鼻を啜った時である。 「静くん、寝てる?」  声が掛けられた。花村の声だ。静は飛び上がりそうなほど驚いた。 「お、起きてる!」  襖越しに聞こえた声に静は思わず大きな声で応えた。  何だ、どうして来たんだ。  ドキドキと胸が鳴っている。思いもよらないことが起こり、緊張する。 「ご飯食べないの? 今日は一人で金平牛蒡を作ってみたよ。あと残った牛蒡でお味噌汁も作ったんだ」 「い、いらない……」  花村が料理をする動機は静だ。だから今回作ったものも静に食べさせたくて作っている。  それを粗末にするのは気が引ける。しかし今、花村に会えば心の弱い部分が出て来てしまうだろう。 「そっか……」  それだけ聞こえて来て、足音が遠ざかっていく。 (あ、行ってしまった……)  途端に寂しくなってきて、静は目を擦る。  自分から拒否をしておいて、何て勝手なことを思っているんだろう。 (もう寝てしまおう。こんな日は起きていても良くないことばっかり考えてしまう……)  ぐっと瞼に力を入れ、無理矢理寝ようとする。  うつらうつらとしてきた時だった。 「静くん、おにぎりを作ってきたよ!」  勢いよく襖が開けられる。半分くらい眠りについていた静はいきなり覚醒させられ、驚きで身体を起こした。 「な、なに……?」  先ほどとは違い、驚きで心臓がドキドキとしている。  静が起き上がったのを見て、花村は優しく微笑む。  片手で持っているトレイの上には何か白いものが見える。先ほど言っていたおにぎりだろうか。 「おにぎりだよ、これなら食欲がなくても軽くつまめるだろう?」  そう言って花村は、布団に座っている静の横に腰を下ろした。 (何で横に座ってくるんだよ!)  しかし逃げるのも違う気がして、動けない。 「おにぎり、いらないかい?」  ラップに包まれたそれが手渡される。 「……ありがとう」  素直に受け取った。  歪な丸い形だった。前に置かれたトレイを見れば、おにぎりは五個あり、大きさや形に一貫性がない。  静が手渡されたものは一番大きかった。 (きっとこれも初めて作ったんだな……)  ラップを剥く。いただきます、と声をかけて、一口齧った。  優しい味がした。どこか懐かしく感じる。  茶色っぽい色はどうやら出汁のようだ。 「……美味しい、あ」  食べ進めていくと何か出てくる。 「やっぱり君に食べて欲しくてさ……」  具は金平牛蒡であった。みりんがよく効いている。 「美味しい、美味しいよ……」  腹は減っていた。あっという間に食べてしまう。  布団の上で物を食べるなんて行儀が悪いとか、いつもなら思うだろう。だが、今はそんなことを考える余裕もない。  二つ目、三つ目と手を伸ばし、平らげていく。  最後のおにぎりを食べ終えた時、ラップを花村に取られた。  指が当たるだけでも、頰を撫でられた時の感触を思い出し、顔が熱くなる。 「良かった、食欲はあるんだね」 「うん、ありがとう。美味しかった」  そこで会話は止まってしまった。静が食べ終えても花村は出て行こうとしない。  静は何だかむず痒い気持ちになる。あえて花村は触れないでいてくれているのだろう。だが二人の間には拭えない気まずさが流れていた。  静から切り出すことにした。 「今日はありがとう、助かったよ。あんたがいなきゃ、山田さんは助からなかったかもしれないし」 「そんなことないよ、静くんが諦めずに呼びかけてくれたから山田さんも意識を取り戻したんだ」  静は首を強く、横に振る。花村が静を庇うのはわかっていたことだ。 「違う……、山田さんは俺のせいで……、俺がもっと早く家に訪れていれば、こんなことには……。俺の、せい……なんだ」  俯く。言葉にすると、更に責められているような気がして視界がぼやけた。 「地域警察官なのに、交番のお巡りさんなのに。何にも役に立ってなかった。昨日の現場だって、山田さんが死ぬかもしれない、と思っただけで、何も考えられなくなって……、本来なら山田さんは医師に任せて、家の中を見て事件性がないかとかも見なきゃ行けなかったし……、俺、何にもできなかった、救急隊が来ても、引き剥がされるまで気がついてなかったしさ……」  ぽろぽろとわだかまっていた辛さが漏れていく。  言葉に詰まり、唇を噛み締める。しかしそんな静へ花村は意外な言葉を掛けた。 「山田さんも、山田さんの家族も、静くんに感謝していたよ」  花村の優しい声が降ってくる。それに少し安心感を覚え、静は身体の力を少し抜いた。 「お巡りさんが見つけてくれて、窓を割って入ってくれたから、おばあちゃんは助かりましたって言ってたよ。それに子供達が新聞が何日間も溜まっている家を見つけたら警察に通報しなきゃって思ったのも、毎月静くんが作っている広報誌に書いてあるからだろう?」  握りしめた手に花村の手が重なった。 「役立たずなんかじゃないさ。静くんは誰から見ても良い警察官だよ」  弱気になっていた心に花村の言葉が深く刺さる。しかし痛みはない。暖かな気持ちと共に嬉しさが溢れ、静は自分から花村の手を握った。  花村はその手を握り返してくる。静は涙を堪えながら何度もこくこくと頷く。 「指先、怪我してるね。山田さんの家のガラスを割った時に切っちゃったのかい?」 「ちょっと切っただけだ。すぐ治る」 「手当てしてあげるよ」 「……頼む」 「救急箱持ってくるから、ちょっと待ってて。今はこれだけ」  傷に触れないよう、手の甲にちゅ、とキスを落とされた。  嫌ではなかった。もっと色々なところにキスして欲しいとさえ思ってしまった。  以前はあんなに嫌だったのに。  花村が部屋を出ていく。  静は恥ずかしくなって、もらった麦茶を一気に飲み干した。  よく冷えている。顔や身体の熱さを少しでも冷ましたかったが、なかなか熱は引いていかなかった。    指先の傷を消毒され、絆創膏を貼られる。 「こんなもんかな? もし膿んできたり、痛くなってきたらすぐに言うんだよ」  救急箱を持った花村はすぐに静の部屋に戻ってきた。そして約束通り、指先の怪我を手当てしてくれた。  深かったら縫わなきゃ、と言われていたので、ちょっと怖かったが、そういうこともなく、消毒と絆創膏という軽微な手当てで済んでホッとしている。  花村に手を触れられている間、静はドキドキしっぱなしだった。花村の手は暖かく、大きい。そして優しい手つきで静に触れてくる。 (これは手当てしているだけだ、ドキドキするな……)  そうは言っても、好きな人に触れられているのだから、どうしても緊張してしまう。 「それじゃ、僕は自分の部屋に帰るから」  手当てが終わり、暖かな手は静から離れる。救急箱を片付け、花村が出て行こうとした。  花村が帰ってしまう。  そう思うと、もっとここにいて欲しい、という思いが湧いてくる。  背を向け、立ち上がろうとした花村の服の裾を静は掴んだ。 「何、どうしたんだい?」 「戻るなよ……ここにいてくれ」  花村は振り向く。 「静くん……」  花村は険しい表情をしている。しかしそれは怒りや嫌悪からではないことはわかる。  花村は元の場所に座った。救急箱を側に置いた時、中身がやけに大きな音を立てた。  静は自分から近づく。そして思い切って、自分から花村へ口付けた。 「んっ、ふ、ぅ……」  舌先で唇を突けば、開いた唇の隙間から出てきた分厚い舌に絡め取られる。花村は静からの口付けに応えてくれた。  腰を抱かれ、敷きっぱなしの布団の上に押し倒される。その際も口付けは止まない。どんどん深いものに変わっていき、静は身体の力を抜いた。  もう何も考えられない。以前にしたキスとは違い、花村は静が上手く息継ぎできるように調整してくれていて、その優しさにも身体の奥が切なくなってしまう。  鼻にかかった、甘えたような声が恥ずかしい。けれどキスに夢中になっていくにつれて、だんだん気にならなくなっていく。  この先も、花村ならしてくれるかもしれない。 (あ……勃ってきた)  静が背中に手を回し、もっと花村と密着しようとした時だった。 「っ、だめだ」  唇が離され、同時に身体も引き離された。  何が起きたのかわからず、静は身体を強張らせる。 「ちょっと頭を冷やしてくる。すまない」  そう言うと、花村は救急箱を持って、部屋から急いで出て行った。  呆気にとられ、ポカンとしていたが、自分が熱に浮かされて、何をしたのかを自覚すると、顔に熱が集まってくる。  しかしキスだけで反応していた自分の下半身を見て青ざめた。 (同じだ……)  元彼も同じだった。キスまではできたが、静が勃起しているのを見て、男性だと認識し、静を拒否した。  身体を密着させた時、勃起した静自身が花村の身体に当たり、熱が冷めたのだろう。  裏切られた気分だ。結局、花村も静の綺麗な顔に惑わされていただけ。勃起したことを知ると、『無理』になった。 「クソ、クソっ」  さっきまでは堪えられていた涙が溢れてくる。  人生で二度目の失恋だ。こんな顔でいいことなんかひとつもない。  静は目元を腕で擦る。一目惚れしたなんて言う男を好きになるからだ、と自分で自分を責めた。    花村から避けられている。  キスをして、それから、という時に花村から拒否をされた。  あの日以降、同じ屋敷に住んでいるのに、花村とは顔を合わせてはいない。明らかに生活時間をずらされて、避けられているのだ。  これで静の予想は確信へと変わった。  もう花村は静のことは好きでもなんでもないだろう。  屋敷からも出ていけ、と言われるかもしれない。その時のためにアパートも本格的に探し始めた。 「ったく、深夜まで何携帯いじってんだよ」 「住むところ、探してるんだよ。クソ、ここからだと署から遠いな」 「え? 花村さんとこにまだいるんじゃないのか? その後は違う官舎に入れてもらうんだろ?」 「んー、まあ色々あるんだよ」 「あの御曹司と何かあったのかよ? 喧嘩でもした? それとも無理矢理迫られた?」  根掘り葉掘り聞いてこようとする坂元を静は睨んだ。  実際、迫って拒否されたのは静の方だ。何だかばつが悪い。 「うるせえ、もう喋りかけんな」  ひど、と言い、戯けて肩をすくめる坂元を無視し、静が再びアパート探しをしようとした時であった。 『至急、至急、本部から藤白』  静と坂元に緊張が走る。真夜中の至急報。嫌な予感しかしない。  二人は黙って無線指令を聞く。 『神浜町地内、異常発報入電中。住所にあっては神浜町一丁目一番一号花村邸』  住所を聞き、静は思わず椅子から立ち上がった。 「おい、ここって……」 「花村の家だ」 『人感センサー、三重発報。直近の移動局は特別緊急走行で移動せよ』  静は青ざめた。  異常発報とは施設や家屋内に侵入者が現れた際や、強盗や犯罪など何か異常があった際に警備会社と警察へ通報がなされるものだ。  つまり花村邸に何者かが侵入したことを現している。  時間は午前二時頃。真報の可能性が高い。 「お前なんか顔色悪いぞ、大丈夫か?」 「いや……」  言葉が続けられず、静は黙り込む。それを見た坂元はパトカーのキーを静から取り上げた。 「おれが運転してやる。お前は横に乗ってろ」 「頼む……すまん」  二人は急いでパトカーに飛び乗った。   サイレンの音と回る赤色灯の急かされながらも静は冷静になれ、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。  大きい屋敷だ。花村と犯人が遭遇する確率は低いし、花村は一度寝たら起きないことが多い。  別に部屋や建物がどれだけ荒らされようとしていても構わない。何か盗まれたって、それはそれで仕方ない。  ただ、花村さえ無事でいてくれれば、それでいい。  現場である花村邸に着いた。  通報があったにしては、あたりは怖いほど静まり返っている。  いてもたってもいられず、静はパトカーから飛び降りた。 「俺、先に行くから!」 「待て! 応援が来てからだ!」  おい、と坂元が静を制止する声が後ろから聞こえるが、構っていられない。  静は大慌てで警棒を取り出し、門から邸内へと入っていった。    懐中電灯で照らしながら周囲を歩く。玄関に異常はないが、すぐ横の縁側の窓ガラスが突き破られている。若干血もついていた。  おそらく犯人は慣れていないのだろう。プロの泥棒はこういったミスを犯さない。  誤報であってほしい、と願っていたが、真報である可能性が格段に跳ね上がった。しかも慣れていない犯人なら手荒な手段に出てくる可能性もある。  もしそんな奴と花村が遭遇したら。  静は顔を青くした。 (一度、花村の寝室へ行こう……)  とにかく無事を確かめたかった。呑気に寝ていたら、蹴り飛ばして起こしてやるのもいいかもしれない。  玄関から中へと入った時だった。  窓ガラスが割れる音がして、一気に緊張が走る。静は音の方へ向かう。  暗い廊下の先で人影が動いたのが見えた。 「おい! 待て!」  そう言って止まる犯人はいない。静の声に反応した人影は走り去っていく。  この屋敷は増改築を繰り返し、迷路のようになっている。数週間過ごしている静でもたまに迷うし、まだ全貌はわからない。  しかし初めて来たこの犯人がそれを知っているわけがない。  そして、走り去っていった先は花村の寝室の方向だ。  そこからは旧邸の方へと繋がっている。花村の寝室は旧邸の方にあるのだ。  旧邸へと入って、人影を見失ってしまった。 (あれ、ここは廊下があるだけだ。どうして、隠れるところもないはず)  窓やドアも空いていない。外へ逃げた可能性も低い。  懐中電灯で辺りを照らしながら、検索する。  中程まで歩き、扉が閉まりきっていない部屋を見つけた。  そうっとその扉を開けて、中を確かめようとした時であった。 「静くん! 危ない!」  背後から誰かに覆い被さられ、床へと押し倒される。  それと同時に静が開けようとしていた扉に何か振り下ろされ、ドアノブが弾け飛んだ。  静に覆い被さったのは花村だった。その背後に棒状の何かを持った男がいる。先端が鉤状になっていた。 (バールだ!)  それに気が付いた静は急いで身体を起こそうとする。 「は、花村っ! どけ! 危ない!」  顔を隠した男は花村に向けて、バールを再度振り下ろそうとしていた。  しかし花村は静の身体を守るようにして抱きしめたまま動かない。  間に合わない。大の男が勢いよくバールを振り下ろしたら、背骨なんか粉々に砕けてしまうだろう。後頭部に当たったら、即死も考えられる。 (花村が……!)  静は守るように花村の頭を抱きしめた。 「やめろ!」  花村の背中に当たる直前で、振り下ろされたバールが止まる。当たった衝撃で警棒は折れたが、すんでのところで花村には当たらなかった。 「大丈夫か!」  坂元だった。男が怯んだ隙に、折れた警棒で押し返し、バールを手から叩き落とす。  男は悲鳴を上げた。手首に警棒が当たったのだ。相当な痛さだろう。 「警察だ! 大人しくしろ!」  そう言いながら、もう刑事課員二人がやってきて、坂元ともに男を制圧にかかる。  犯人は暴れている。三人では心許ない。静も加勢しに行きたいが、花村が離してくれない。 「離せ、大丈夫だ、もう捕まったから」  静が肩を揺り動かすと、花村が顔を上げ、後ろの様子を確認する。  そして勢いよく起き上がった花村は静を無理矢理立たせて、犯人から遠ざけた。 「大丈夫かいっ⁉︎ 怪我は⁉︎」 「してない! お前こそ、怪我とかは」 「僕は大丈夫だ、ああ心臓が止まるかと思ったよ……」  そう言ってきつく抱きしめられる。  ぞくぞくと捜査員や警察官が家の中に入ってきていた。いつの間にか、手錠をかけられた男は大人しくしている。  まだドキドキしていた。緊迫した現場特有の緊張感と、花村に抱きしめられている高揚感が混ざる。  とにかく花村が無事で良かった。  静は周囲を見る。人が集まってきているが、目を閉じ、そっと背中に手を回した。    男は先月、駅前で花村の鞄を奪い、逃走した犯人でもあった。  男が奪った鞄の中には花村が人に譲ろうとしていた貴金属品や骨董品などの明細が入っており、それらを狙って侵入したらしい。  最初、花村は寝ており、侵入に気がついていなかった。しかし坂元たちが来てから起き、事情を説明され、四人で邸内を検索しているところ、犯人の男に襲われかけている静を発見。あのような状況になったらしかった。  あれから静は寝ずに夕方まで署内で残業をしていた。捜査報告書を作ったり、公務執行妨害になるので、調書を取られたり、写真を撮影したり。疲れていたが、やらなければいけないことが終わったのは夕方頃だ。  花村は簡単な事情聴取と被害届の提出、調書などだけなので、静よりも早く帰っているだろう。仕事は休まされたらしい。  帰りたいような、帰りたくないような気持ちで道を歩く。  花村が身を呈して静を守ってくれた時、あの時は必死で何も考えることができずにいた。だが時間をおいて思い出すと、不覚にもかなりときめいている自分に気が付いた。  嬉しかった。最後には無事を確かめるようにひしと抱かれ、静はそれを受け入れたのだ。 しかし警察官としての自分はそれを許せない。花村は被害者だ。一般人を危険に晒し、守ってもらうなんて、警察官として失格だろう。それにあの時は花村が心配で、坂元の制止を振り切って先に飛び出して行ったり、窓ガラスが割れていて、真報の可能性が高かったのに報告を怠ったり、と山のように反省点が挙げられる。  実際、坂元には指導を受けていた。  警察官としての反省点は仕事で返せばいい。今は花村のことが気になっていた。  花村の気持ちは一体、どちらなのだろう。  実はあの時、久しぶりに花村の顔を見たのだ。  それまで静を避けていたのは花村の方だ。キスをしてそれから、という雰囲気の中、静は花村に拒否された。  しかし自分の身を挺して、静を守ってくれたのも花村だ。  思わず自分の顔に触れる。  そんなにこの顔が好きなのだろうか。それとも本当に静のことを思っているのか。  暴漢から被害者を守る、という行動は警察官として当たり前の行為だ。しかしあの時、自分は警察官としての職責以上のものを花村に感じていたし、最後の抱擁を拒めなかった。  最後、抱きしめられたのはなんだったんだろう。  純粋な心配、安堵感から静を抱きしめただけだろうか。普段から大袈裟に自分の感情を表現する癖のある花村だ。それも有り得る。  カレーの香りが漂ってくる。花村邸に近づくにつれてその香りも濃くなっていく。  不意に泣きそうになった。花村が疲れているであろう静を思い、カレーを作ってくれている。  以前、花村が作ったにんじんが生煮えのカレーを思い出す。あれから何度か一緒にカレーも作り、花村の料理の腕はかなり上達していた。  花村はいつもいつも、静に対してストレートに好意を伝える。  一目惚れをした、好きだ、愛している。  静は玄関の戸の前で顔を覆った。  花村の身体の暖かさが離れていった時の寂しさ、惨めさを思い返す。  花村は静にキス以上のことは求めていないことは明白だ。  愛していれば身体も欲しくなるのは自分だけなのだろうか。  目が痛い。鼻がつんと刺す。冷ややかな涙が手のひらを濡らした。  このまま戸を開け、中へ入ると、出てきた花村に縋ってしまいそうだ。  ここまで来て、他人からの好意を素直に受け取ることのできない自分が嫌になりそうだった。 (くそ、泣きやめ!)  必死で目を擦っている時である。 「おかえり、静く……あれ?」  戸が開いた。普段着の花村が顔を出す。  花村は静が泣いていることに気がつき、顔を青くした。 「どうしたんだい? もしかして夜の事件で怪我でもした? どこか痛い所があるのかい?」 「っ、いい! 怪我もしてない! 後で入る!」  差し出された手を振り払おうとして、逆に掴まれてしまう。ぐい、と引き寄せられた。 「こら、暴れないで。どこが痛いんだい? 診てあげるから」  強引に玄関に入れられてしまった。 「大丈夫かい? 落ち着いた?」  優しく囁かれる。花村は静を本気で心配しているだけだ。  それだけでも嬉しくて、身体が震えそうになる。浮きかけた熱が身体の中を巡った。 「どこも……痛くない、怪我なんかしていない」 「だったらどうして、泣いてるんだい? 君が悲しいのは嫌だ」 「ぁっ、だめだ!」  腰を抱かれた。ぐいと腰を引き付けられて、静は思わず身体を離そうとする。  どうして、とでも言いたいような花村の表情を見てざわつく。  静は少し俯く。恥ずかしくて目線を合わせられない。 「ダメだ、身体がくっつくから……」 「どうしてそれがだめなんだ」  詰問するような声色は少し怒りを孕んでいるように聞こえた。 「だって、前、迫った俺を拒んだじゃないか……、男の身体に興奮できないからだろう? だから……」  どうしたらいいか分からなくて、目が泳ぐ。 花村は静の肩を掴んだ。そして目線を合わせ、真剣な目で静を見た。 「僕はいつでも、君のことを愛している」  真摯な言葉だ。それを上手く受け取れない自分に腹さえ立ってくる。  静はまた泣きそうになった。 「俺も……お前が、好き」  ようやく思いを言葉にすることができ、少しだけ肩の荷が降りる。  静の告白を聞いた花村はいつものように優雅に、柔く、優しく微笑んだ。 「同じ気持ちになってくれて嬉しいよ」  それを聞き、静は黙り込む。同じ気持ちではないだろう。 「一目惚れだろう」 「ああ、一目惚れだ。君しかいないと思った」 「違う、違う」  首を横に振る。自分で言わなければいけないなんて、なんて惨めなんだろう。 「俺の、顔に一目惚れしたんだろ?」 「顔?」  花村は不思議そうな表情をした。首を傾げて、眉を寄せている。 「確かに、静くんの顔は美しいと思う。目元は君の内面の強さや正義感が滲み出ていて、意志の強そうな眉にはすごく惹きつけられる。鼻もしっかりと筋が通っていて、神々しいものを覚えるし、その中で唇は小さくて控えめで熟れているみたいに赤いからいけない気持ちになってしまうし、肌も白くて、跡がつきやすそうだなって……」 「そこまで褒めろとは言ってない!」 「けど、僕は、ひったくり事件の時に危険を顧みず、僕を守ってくれた君のかっこいい背中に一目惚れしたんだ」 「なっ……」  予想外の言葉に思わず口を開けたまま、見つめてしまう。 (せ、背中って……、何だそれ)  流石にそんな理由で好きになられたことはない。 「顔なんか見なくても、僕は君に同じことをしたよ」  何だか予想外すぎて、これもまた素直に言葉を受け取れない。 「あ、で、でも! 俺からキスした時、部屋から出てっただろ……乱暴に押しのけて、しかもそれから俺のこと避けてたし……」  何となく歯切れが悪くなる。その時のことを思い出すと今でも辛い。昔のトラウマがフラッシュバックするような気持ちになる。 「君を傷つけてしまって、すまない」  花村はまず静に謝罪した。そしてもう一度、ひしと抱きしめた。 「君からのキスが嬉しすぎて、我慢が効かなさそうだったんだ。いい歳してがっついているなんて思われたくなかったし、君の前ではスマートな自分でいたかった。それに我慢が効かないまま乱暴にしてしまったらどうしようって怖かったんだ」  スマートなんて今更だろ、という言葉が出そうになったが、流石に我慢した。 「勃起した俺のが当たって、男の身体だって改めて認識して……嫌になったりだとかは……?」 「ありえないね!」  肩を持たれ、真剣な眼差しを直に受けている。熱のこもったそれは嘘をついているようには見えない。 「君が欲しい、心も身体も、全部」  花村は優雅に微笑んだ。 (あぁ、やっぱり王子様みたいだ)  静はじっと花村の視線を受け止める。   歯の浮くような恥ずかしいセリフでも花村ならサマになってしまう。  そして、初対面の時も同じことを思っていたことを思い出した。 「俺も、お前が欲しい……寄越せよ」  恥ずかしさを誤魔化すため、静は自分から噛み付くようにキスをした。    やっぱりまだ裸を見せるのには抵抗があって、後ろを向こうとすると、腰を持たれ、身体をひっくり返されそうになる。 「ねえ、こっち向いて」 「い、嫌だっ!」  静は身体に力を入れて、抵抗した。  花村の部屋に連れてこられ、濃厚なキスを受ける中で、服は全て取り払われてしまっている。手際の良さに感心するふりをしたが、初めての行為に緊張していた。  それに花村は寝室の灯りをつけっぱなしにしているのだ。 「消せよ![#「!」は縦中横] 電気!」 「君のことを全て見たいから却下だよ」 「恥ずかしいから消せって……、んっ」  再びキスをされ、身体の力が抜ける。キスで誤魔化すな、と思ったものの、言えるはずもない。静は黙ってキスを受け入れた。  二人の身体は密着している。後ろを向いていたはずなのに、キスに気を取られているうちに、いつの間にか正面を向かされている。  これでは互いがどんな状態になっているかは誤魔化せないだろう。 (あ、ちゃんと勃起してる)  花村も静と同じく裸だ。花村自身がきちんと反応しているのを感じて、安心した。  しかし勃起した自身を花村に見られたくない。また身体を捻ろうとすると、体重をかけられ、わざと擦り付けられた。 「あ、だめ……、当たっちゃ……」 「わざと当ててる、大丈夫だから」  そう言うと、ちゅっと目元にキスを落とされる。 「このままでいて、静くんの顔も身体も全部好きだって証明してあげるから」  どういうことだ、何をされるんだ、と思い、身体を強張らせるが、その強張りをほぐすように何度もキスが顔に降ってきた。唇は首筋、鎖骨、胸元、腹へと降りていく。  くすぐったいような、気持ちいいような感覚だ。合間に大丈夫だよ、と言われ、優しく食まれたり、身体を撫でられたりすると、自然と安心感を覚え、静はリラックスしていく。  気持ちいい。もっと触っててほしい。 「んんぅ……」  へそを舐められた際、勃起している静自身に指で触れられた。何をしようとしているかなんて、聞かなくてもわかる。 「大丈夫、気持ちいいだけだから」  それでも不安そうな目で見ると、足の間で花村が笑っていた。 「わ、わかった……」  静も覚悟を決める。いつまでも過去のことを気にしているわけにはいかない。  そろそろと足を開き、花村がやりやすいように位置を調整した。 (し、死ぬほど恥ずかしい……っ! けど、花村のこと、信じたいし……) 「ありがとう、舐めるよ」 「ぅん……、っ、う、ぁあっ」  花村の口の中に自身が含まれていく。流石にその場面は見ていられない。静はベッドに背を倒し、目をきつく瞑った。  口淫されたのは初めてだ。ねっとりと吸い上げられたり、舌で忙しなく舐めしゃぶられたり、快感で腰が浮いてしまう。  まだ口淫をされて少ししか時間も経っていないのにもう射精しそうだ。だが流石に口の中へ射精するのはマナー違反だろう。  懸命に堪えていると、口が離され、声を掛けられる。 「後ろも触るよ」 「待っ……、ぃあ、あぁ、だめだって……ぇっ、ふぁあっ」  今、後ろにまで触れられたら、我慢できなくなってしまう。  しかし待て、という言葉が口から出る前に滑った指が後孔へと含まされた。 「あ、あぁっ、だめっ、いくから、あぁっ!」  口の動きと指の動きが連動していて、否応なく快感は高まっていく。水音は激しくなっていき、ついに熱く弾けた。 「くぅう、ぁあっ」  静は花村の口の中へ射精してしまった。身体に力が入り、後孔の指もきつく締め付け、絶頂に達する。何度かに分けて射精した精を花村は全て飲み込んだようだ。  謝ればいいのか、罵倒すれば良いのか、頭が回らない。  射精の影響でぼうっとしているものの、花村は休ませてはくれなかった。 「わっ、ちょっ!」 「すまない、余裕がなくなった」  指を引き抜かれたかと思うと、膝の裏を持たれ、足を広げられる。 「挿れるよ」  静の返事は聞かれなかった。熱く猛った花村自身が静の中へと挿入される。 「っ!」  息が詰まる。圧迫感で声が出ず、上手く空気を取り込めない。  しかし、余裕がない、と言った割には、挿入は時間をかけてゆっくりと行われた。 「ひ、ぅ、くぅ、ふうぅ……」 「くっ」  ゆっくりと最奥を目指して、花村自身が進んでくる。  大きくて、熱くて、固い。圧迫感もあり、痛みもある。しかしこの痛みは静が花村に顔ではなく、身体も心も全て愛されているという何よりの証拠だ。 「あ、嬉し……っ、んっ」  唇を塞がれる。キスに応えていると、律動が始まる。足を腰に絡ませると、中の花村自身が大きくなった。それが嬉しくて、今度は自分から身体を押し付けた。 「あ、あぁっ、花村っ……」 「あ、ま、つ、ぐ、二人きりのときは天嗣って呼んでくれるかい?」 「んっ、あ、天嗣……」 「ありがとう静」  呼び捨てにされてしまった。普段はくん付けなのに。それだけでも得も言われぬ興奮に背中がゾクゾクとしてきた。  律動が再開される。二人は名前を呼び合い、互いを求める。  心を通わせ、身体をつなげることがこんなにも気持ちよくて、幸せであることを静は初めて知った。  花村の愛に応えて後悔はない。過去に囚われず、一歩踏み出して良かった、と泣きそうになる。  二人での絶頂の瞬間が近づいている。静は花村をきつく抱きしめ、この暖かさを二度と離したくはない、と思った。 
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