1人が本棚に入れています
本棚に追加
暗幕の隙間から覗く陽の光が、右頬を焦がす。
僕は暗幕を捲ると、ほんの少しガラス窓を開けた。夏風が熱のこもった部屋に吹き込んだ。
カラカラカラ……
麦茶の氷が音を立てながら、透明なコップの中を踊る。
皮膚を焦がすような夏の日差し。
暗幕だらけの部屋。
汗をたっぷりかいた麦茶。
脳みそを巡るあの日の記憶——。
◆◆
古い校舎の廊下が鈍く軋んだ。所々、ささくれだった床板に足を取られないようにしなくちゃいけない。
僕は試験管やらフラスコやら、ビーカーやら、
まさにさっき、ブクブクと液体を煮えたぎらせて実験をした道具を、銀色のトレーに入れながら廊下を駆けている。
時透先生に頼まれたから運んでいる。
僕の担任の先生。白衣が似合う大好きな先生だ。
『理科実験室』
と書かれた札がある部屋の扉の前で、僕は一息つき、トレーを離さないままで指先だけで扉を引いた。
暗幕に囲まれた部屋の中。
その一部から差し込む日差しが、ある二つの陰影を包み込んだ。
部屋の片隅で、重なり合う二つの体。
それは、見覚えある真っ白い白衣の背中で、頬を寄せるようにして、こちらを見ているもう一人の白い顔は……
僕の母さんだった。
顔を紅く上気させた顔は、確かに母さんだったけれど、頭が混乱をしていて、理解を得るのに時間を要するだろうと思った。
心臓が体の中心で暴れ出した。
銀色のトレーをガシャン!と直近の机に置いた僕は、なぜか一礼をすると実験室の扉を飛び出して、走り出していたのだった。
「開田くん、ちょっといいかな」
数日後、僕は時透先生に実験室に呼び出される。あれから僕は、二人の抱き合っている姿が、目の奥から離れないでいた。
僕には父さんがいない。未婚のまま、母さんは僕を産み落とし、一人でここまで育ててくれたのだ。だから、そういう相手が、母さんにいても仕方がないのかもしれないが、まさかそれが僕の担任の時透先生だったなんて……。
カタン……
「暑いよな、はい、麦茶」
机に置かれたガラス製のコップには、琥珀色の麦茶と二つの角ばった氷。僕の向かいに座った先生は、コップを持つとグビッとそれを飲んだ。
カラカラカラ……
先生の氷が揺れる。
その透明な世界に、僕は見惚れた。
暗幕の隙間から覗く陽の光が、僕の片頬を焦がすように差し込む。額から垂れ流れる汗を手の甲で拭うと、僕は麦茶を飲んだ。冷たい液体が喉の中心を通り過ぎた時、聞こえてきた言葉に心が震えた。
「開田くんの父親は私なんだ」
置いたグラスは汗をかいて、机に無色のシミをじんわりと作っていた。
大人の事情とは何だろう。僕にはよく分からないが、先生の顔は夏の日差しが照りつけて、あの時の母さんと同じように、上気しているみたいに映った。
それからまた数日後、母さんが行方不明となる。そして僕は、遠い親戚の家に引き取られる事となり、この小学校を転校しなければいけなくなった。
転校する日、僕は先生の実験室の扉の前に来ていた。息を深く吸った後、コンコン!とノックをしたが、返事がないので扉を静かに引く。
暗幕だらけの部屋に入ると、あの日の二つの陰影が脳裏を横切った。目を閉じて、再び目を開くと、そこにはあの日の二人はいない。
重苦しい部屋の中を歩きながら、首を振って見渡しても先生はいない。その奥に『準備室』を発見し、ノックをしても何の反応もないみたいだ。
僕は扉をガチャリ、と開けた。
その部屋も暗幕を纏っていたが、だいぶ小さな部屋で、ひしめき合う棚の上には見慣れた実験道具が並んでいる。
試験管、フラスコ、ビーカー……
小瓶?
見慣れない美しい翡翠色の小瓶。
その中には、人の肌のような色の細長い物体が入っている。
「ソーセージ?」
その小瓶に近付いて、まじまじと中身を眺めた。
それは、人の指だった。
何かの膜みたいなものに包まれた青白い指。ソーセージのような……腸詰めの指?!
どうして、人の指がこんな瓶に?
どうして、どうして……。
その指には、見覚えがあった。
指の真ん中辺りにある黒いホクロ。
そのホクロを、僕は知っている。
ジリジリ、後ずさりをすると、背中に扉の壁面がぶち当たる。
心の真ん中がひどく振動して、呼吸が苦しくなり、一瞬体が動きを止めた。でも、すぐにハッと意識を戻すと、僕は準備室を飛び出し、実験室をも飛び出した。
ささくれだった廊下の床板につまずきそうになりながら、僕はただ走った。
怖かった。
あの指は、
あの人差し指は、
あのホクロは、
母さんだ……。
◆◆
あれから何十年経っただろう。
暗幕の隙間から漏れる熱い光が、僕の脳みそを、心臓をも震わすように、焼け焦がすように、あの日の夏の記憶を連れてくる。
暗幕を引いて、翡翠色の小瓶を見つめる。
腸詰めした指。
大好きな人の人差し指。
母さんみたいにホクロはないが、同じぐらい華奢なラインが少し似ているかもしれない。
僕は、ふっと思った。
『血は争えない』と——。
【完】
最初のコメントを投稿しよう!