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これを運命と言わずに何と呼ぶのだろう。
声の主は手帳の持ち主である藤野 千明だった。
テラスの柵に寄りかかりながら、電子タバコを手に持ち彼女は微笑んでいた。
冷たい空気に晒され少し赤くなった耳には小さなダイヤのピアスが飾られていて、それがより一層彼女の美しさを引き立てている。
「あ、えー……と……」
仕事で自信が付いてきたとはいえ、これほどの美人を前にするとどうしても言葉に詰まってしまう。
手持ち無沙汰な手のやり場を、恥ずかしさを誤魔化す様に再びタバコに火をつける。
「あの、大変でしたね、あの時は。その、助けていただいてありがとうございました」
何とか口にした言葉は月並みのもので、我ながら気の利いた言葉が浮かばずに自嘲気味に笑う。
すると一瞬の間を置いて彼女も微笑む。
「いえいえ、私、たまたま躓いて転んだだけでしたから、むしろ……あ、えーと、よろしければお名前を伺っても?」
彼女が緩やかに近づきながら首を傾げ上目遣いで眺めてくるので、俺は咄嗟に目を逸らしながらうわずった声で名乗る。
「……か、柏木 誠です」
柏木さん、柏木さんと、俺の名前を小声で二、三度可憐に呟いてから、彼女は再び微笑んだ。
「うん、もう覚えました!柏木さんがいてくれたから、転んで怪我をしないで済みました!こちらこそありがとうございます!」
その笑顔は証明写真で見るよりも遥かに美しくて、テラス席での寒さなど微塵も感じないくらいに俺の体は熱くなっていた。
タバコがあって助かった。
何もなければ間が持たない。
緊張を誤魔化す様にゆっくりと肺に煙を入れて吐き出していく。
「それじゃあ、寒いですし私は席に戻りますね。柏木さん、ありがとうございました!」
電子タバコをケースにしまうと、甘いフレーバーの息を吐いて彼女は手を振り立ち去ろうとする。
この機会を逃したらきっと会えなくなってしまうんじゃないかと思い、俺は彼女を呼び止めた。
「あの!……すみません、この間、手帳を落としませんでしたか?」
「……?えぇ、実はそうなんです。おばあちゃんの作ってくれたケースごと落としてしまってショックで……」
「その、……実はその手帳、俺が拾っていて、交番に届けようかとも思ったんですけど、直接連絡した方が確実かなと思って、明日にでも書いてあった連絡先に電話しようと思っていたところなんです。すみません、大切なものだったのならもっと早く連絡すればよかった……」
彼女の瞳は街灯のせいかより一層輝いて見えた。
「本当ですか!?あぁーーー良かった!拾ってくださってありがとうございます!おばあちゃん去年亡くなってしまったのでもう本当にショックで……。交番に行っても落とし物はないって言われていてもう諦めようとしていたところだったんです」
冷たい手で僕の手を握ると、彼女はピンク色の唇を微笑ませる。
「あの……柏木さんって、彼女さんとか……いますか?」
突然の質問で面食らったが、俺は慌てて否定する。
「本当ですか!?こんな素敵な方なのに。……あの、良かったらこの後二人で飲みに行きませんか?これって、きっと、おばあちゃんが繋いでくれた運命だと……、あ、すみません私勝手に舞い上がってしまって」
頬を赤らめてさっと手を離す彼女の姿に、僕は釘付けになってしまった。
「こ、こちらこそ!藤野さんみたいに綺麗な方と一緒に飲みに行けるなんて夢みたいです!」
「ふふふ。お上手ですね、柏木さん。そうしたら急いで荷物を取ってきます!お店の前で待っていますね」
ウッドデッキのテラスがまるで演劇の舞台の様に感じる。
彼女がハイヒールで軽やかに走りながら店の中へと向かっているのを見送っていると、不意にカナリアの鳴く声がする。
背筋に嫌な視線を感じ、振り返ると宮本が暗い顔をして黙ったままこちらを凝視していた。
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