炭鉱のカナリア

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 それから年が明けて、俺たちは正式に付き合う様になった。  仕事始めの日、同僚たちがノロウイルスにあたって散々な年末だったと笑いながら話しているのを聞き、そんな下らない話をしている暇があったら契約を取ってこいと怒鳴り散らす。  無能ばかりの職場で唯一の癒しが千明だ。  俺の仕事が忙しく中々会うことはできなかったが、たとえ電話越しでもお互いを、「誠」、「千明」と呼び合うのは至福の一時だった。  だが、やはり会えないのは辛いし、千明も会いたいと電話越しに泣くこともあったので、俺は自分の時間を作るため起業を決意し会社を辞めることにした。  幸い、営業トップだった俺は給料も良かったし、カナリアのお陰で投資の方も順調で資本金は問題ない。  何よりこれまでに築いた人脈もある。  サラリーマンと違って起業はリスクを伴うが、俺が電話で起業の意思を伝えると、千明は応援してくれた。  それは俺の稼ぎ目当ての交際ではなかったことの何よりの証明で、苦労をかけるかもしれないと謝ると、千明は「そんなことない」と微笑んだ。  上司に退社の意思を伝えると、俺に出世で追い越されるのを恐れていたのか上司はほっとした顔を浮かべた。  宮本は俺が退職するという噂をどこかで聞きつけたのか、涙を浮かべて俺に労いの言葉を伝えにきた。  いつも通りの陰気な雰囲気に気分が悪くなり、何を言っているのか全く頭に入ってこない。  不思議とカナリアは鳴かなかったが、何故ここまで俺に固執するのか分からず俺は不気味な感じがして、挨拶も早々に会社を後にした。  それから俺は無我夢中で働いた。  小さな事務所を借りて足を棒にして営業に回り、毎日くたくたになりながら部屋に戻り泥の様に眠る。  勤め人だったころとは比較にならないハードさだったが、結果の全てが自分に返ってくる経営者という立場は最高の奮起剤となった。  時折、仕事の後時間を見つけては夕方から千明と外へ出かけた。  最近ではスマートウォッチの寿命が訪れているのか、こまめに充電をしないと夕方には電池が切れてしまう。  千明とのデート中、充電の残っている時にカナリアが鳴くことがあった。  大体は飲酒運転の車が突っ込んできたり、老朽化した雑居ビルの看板が落ちてきたりといったことだったが、偶に視界の隅に宮本らしい女を見かけることがあった。  相変わらず暗い顔をしてこちらを睨んでいて、時折こちらにスマホを向けたりしていたので俺は背筋がぞくっとしたが、自信もなければ行動力もない女だ。  別に放っておいても無害な女だろうと声を掛けることもなかった。    仕事は順調でどんどん会社も大きくなってきた。  従業員も増えて、俺にも少し自由な時間ができてきた。  千明には苦労をかけた。  今夜プロポーズをしようと結婚指輪も買っておいた。  これから夜景の綺麗なホテルのレストランで千明と会うことを考えると自然と微笑みが漏れる。  そんなことを考えながら事務所で事務仕事をしていると、スマホに宮本からメッセージが入った。  つけっぱなしのテレビからは痴情の縺れで殺された男のニュースが流れている。  そういえば前の会社では休日でも連絡がつく様、社員全員にプライベートな連絡先も共有していたのだったと思い出す。  だが、俺は今の会社でも同じ様に従業員に連絡先の交換を義務付けている。  平日に仕事を終わらせられない無能な社員には俺は遠慮なく土日でも電話をして尻を叩いていた。  管理職とはこういうものだと、経営者とはこういうものだとあの会社が教えてくれたのだ。  お陰で事業が成功しているのだから少しはあの会社にも感謝をしなければ。  だが、あの陰気な女、宮本の名前を見るだけで嫌な気持ちになり、ゆっくりとタバコに火をつけてからメッセージを開くと、短い文でこう書いてあった。 「あの女はやめた方がいいと思います」
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