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「今日は、ごめんな。大切な日だったっていうのに」
部屋の電気をつけ、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを手渡してから俺は千明に頭を下げる。
千明はまだ恐怖が残っているのか、下を向いて震えている。
「ううん。ちょっとびっくりしちゃったけど……大丈夫。あの女の人、前の会社の同僚さん?」
一生の思い出に残るプロポーズの日を台無しにされたというのに、宮本にまでさんをつける千明の健気さが愛おしい。
「あぁ。同期入社だった人だよ。千明、誤解があると嫌だからはっきり言うよ。俺は彼女とは何もない。俺が愛しているのは過去も現在もこれからも千明だけだ」
少しでも千明に今日という日をいい思い出として残してあげたい。
俺は心からそう思い、千明の手を取り真っ直ぐにその大きな瞳を見つめた。
ネックレスのダイヤ、指輪のダイヤに負けないほど、いやそれらよりもはるかに美しい大粒の涙が千明の瞳からこぼれる。
千明はまるで天使のように微笑み、俺の手を握り返した。
「……うん。ありがとう誠。私も、誠を愛してる。さっきは少し怖かったけど、でも、思い返せばスリルもあってドキドキしたし、プロポーズの日にこんな思い出を持ってるのなんて、きっと世界で私たち二人だけだよ。やっぱりあの日の出会いは運命だったんだね」
俺を気遣っているのか、それとも本心なのか。
どちらにしてもこの場面でこんな台詞が言える千明を俺は生涯大切にしたいと思った。
「そうだ、婚姻届!書いちゃおうか!……じゃーん!これ、雑誌の付録で限定の色なんだよ。誠、青色が好きだったでしょ?だからきっと喜ぶと思って!いい色でしょ!ほら!私紅茶淹れるね!」
千明はハンドバックから丁寧に折り畳まれた婚姻届を取り出しテーブルに広げた。
役所に置いてある味気ない紙切れと違って、薄いブルーのそれはまさしく俺の好みの色で俺は感動のあまり涙があふれてきた。
「あぁ、ありがとう千明。これを書いたら、俺たち正式に夫婦だな」
千明は照れ隠しなのか口元を隠して鈴の音の様に笑う。
「ふふふ。夢みたい。私のものにできるだなんて」
千明の淹れてくれたアッサムティーを飲みながら、俺たちはお互いのサインをして、印鑑を押した。
丁寧に丁寧に一文字ずつ気持ちを込めて書いた婚姻届を手でかざすと、ふと俺たちは目が合って軽い口づけをする。
「……これで私のもの。……ねぇ、先にシャワー浴びてくるね。ベッドで待っていてくれる?今日は特別な日だから、特別なことしてあげる」
長いまつ毛を伏せて頬を赤く染め少女の様に振る舞う千明に俺は釘つけとなった。
千明はハンドバッグを持ってバスルームへと向かう。
少しの間俺は頭がぼうっとしていたが、一体どんな特別なことをしてくれるのかと、流れ始めたシャワーの音に期待ばかりが膨らんでいった。
寝室のベッドの上に座り、時間を確認しようと思ったがスマートウォッチの電源が切れているのを思い出す。
(宮本はあれからどうなっただろう。
いや、もうあいつのことは忘れよう。
それよりも、しっかりと充電しておかないと、初めての夜みたいに火事でも起こったら大変だからな)
そんなことはあり得ないと一人で笑いながら、俺はスマートウォッチを充電スタンドに載せる。
雷マークが点滅して充電が開始される間、俺はスマホを取り出した。
ロック画面を見て俺は背筋が凍った。
不在着信81件。
それも全て宮本だ。
一体どうして。
あいつは警察に連れて行かれたはずじゃないのか……。
頭が猛烈に重くなる。
すると突然、電源の入ったスマートウォッチからカナリアの鳴き声が聞こえてきた。
ぎぇぇぇぇえ……!!ぎぇぇぇぇえ……!!
今までに聞いたこともない不気味な鳴き声。
まるで断末魔の叫び声の様な、首を絞められて窒息する様な。
鳴き声はどんどん大きくなってくる。
ワインを飲みすぎたせいか頭痛がするというのに、カナリアは今にも絶命しそうな鳴き声で俺の鼓膜から脳髄を震わせる。
ふいにスマホが震え画面を見ると、やはり宮本から着信だった。
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