炭鉱のカナリア

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 それからというもの、俺は暇さえあれば彼女のことを考えていた。  手帳は警察に届けようかと思ったがせっかくできた彼女とのつながりが途絶えてしまう気がして、あの日からずっと鞄の中に入れっぱなしになっている。  その年の瀬、今期も営業成績トップの座を勝ち取った俺に忘年会もかねた祝賀会が開かれた。  海鮮料理がうまいと評判の店で、いつもは飲み会に乗り気でない同僚たちも料理に期待をしているのか今日ばかりは気もそぞろといった様子だった。  宮本は営業職ではないが、最近社内での仕事ぶりが評価されているらしく今日の主役である俺の隣に座った。  仕事が評価されてきたというのに、宮本は相変わらず自分に自信がなさそうで、近くにいるだけで陰鬱な気分になる。   「柏木さん、おめでとうございます。その……いつも成績トップだなんて、すごいですね」 「あぁ、サンキュー……」 「…………」  会話が続かない。  主役に話しかけているのだから気の利いた話題でも振ってこいと内心毒づく。  チビチビとカンパリオレンジを口に含むその姿はどこか小動物の様で可愛げがあったが、俺はこの間の藤野さんのことが忘れられずにいた。  きっと彼女も手帳を落として困っていることだろう。  今日が仕事納めで明日から連休だし、思い切って連絡をしてみようか。  そう思いながらハイボールで喉を潤していると、宮本が俺の方をじっと見ている事に気がついた。  ちょうど店員が真鯛のカルパッチョ、オイスターの食べ比べ、ムール貝の白ワイン煮など店自慢の海鮮料理を運んできて、それを見た社員達の期待の歓声が上がる。  前髪に隠れた宮本の陰気な目からは明らかに俺への好意が感じられるが、好意のない相手から向けられる好意ほど迷惑なものはない。  黙ったままこちらを見つめているだけのその姿に次第に腹が立ってくる。  宮本が何かを話そうと口を開いた時、突如カナリアの鳴き声が聞こえた。   「悪い、ちょっとトイレ……」  どうも宮本といるとカナリアが鳴くことが多い。  もしかしてあいつといると何か危険な目に遭うのかもしれない。  洗面所の鏡に映る俺の顔は酒気を帯びて微かに紅潮している。  しばらくして席に戻ろうとすると再びカナリアが鳴き始めたため、俺は一服しようとテラスに出る事にした。  十二月の冷たい風が、アルコールでぼやけた頭を心地よく冷やしていく。  吐息なのかタバコの煙なのか。  どちらか判断がつかないが目黒川を白く染めるモヤの向こうで街灯が滲んで浮かんでいる。  吸い終えたタバコを灰皿で潰して店内に戻ろうとした時に、どこかで聞き覚えのある声が聞こえた。 「あの……もしかして、あの時の方ですか?」
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