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第五章 迷いを断ち切る二重奏
コンクールを終え、正式に僕と付き合うことになった奏佑は、まず自分の家族に僕が彼氏だと紹介した。
花崎響輝の一件から、奏佑は家族に対してゲイであることを隠して生きるのをやめたのだという。
花崎響輝の悲劇的な死とそれに伴う奏佑のショックの大きさを知っていた奏佑の家族は、僕を奏佑の恋人として温かく受け入れてくれた。彼の悲劇は、少しでも周囲に彼自身に関する理解があれば防げた悲劇だったからだということを、津々見家の人たちはよく理解していた。響輝は誰にも自分がゲイであることを明かさず、週刊誌によってそれをいきなり暴かれたショックから一線を越えてしまったのだ。
一方、僕はまだ、自分の家族には奏佑との関係を言い出す勇気はなかった。ただでさえピアノを続けることに批判的な両親に、これ以上反対されるであろう奏佑との恋人関係を明かすことは出来なかった。
もしこれを知られれば、僕はピアノも奏佑も失ってしまう。そうなれば、僕に残されるものは何もなくなってしまうのだ。
奏佑は僕の望んでいたようなデートを数々実現させてくれた。ウォーターズライダーで一緒に滑ってみたり、花火大会も一緒に浴衣を着て見に行った。奏佑に誘われて幾度となくコンサートにも出かけた。僕はこれまでの人生で一番充実した時間を過ごしていた。
二学期が始まると、学校に通うのが一段と楽しくなった。同じクラスの隣の席に恋人が座っているのだ。男女のカップルだって、こんなことは滅多にないだろう。
奏佑は音楽雑誌で全国一位に輝いた高校生として紹介された。地方紙にも高校生日本一に輝いた県内の男子高校生として特集記事まで載った。顔写真も載ったそれらの記事により、にわかに奏佑の元に女性ファンからファンレターが届くようになった。
学校でも、全国一位に輝いた生徒として表彰された奏佑の女子生徒からの人気はうなぎ登りだった。奏佑の元には何通ものラブレターが舞い込み、奏佑の受ける女子生徒からの告白が途切れない。
だが、奏佑が自分のものとなった今、僕はそんなものにいちいち気を取られることはない。椎名美月のラブレター事件のように嫉妬に狂うこともない。奏佑のハートを射止めたのはこの僕だからだ。そんな女子生徒を見る度に、「ごめんね、奏佑は僕のものなんだ」と心の中で思っては、思わずそれが顔に出てしまわないように平静を装うのが大変だった。
そんな奏佑に初のリサイタルを開く話が舞い込んだ。小さなホールでの小規模なリサイタルだが、ピアニスト津々見奏佑としてのデビューステージだ。このときの奏佑は意気込みが違った。
「コンクールよりもっと自由に演奏出来るからね。好きに俺の世界を表現できる」
と奏佑は僕に語った。元々、他人と競い、勝つことをあまり好きではない奏佑にとっては、個人リサイタルの方がずっとそんな彼の個性に合ったステージであることは確かだった。
「このリサイタルは律に捧げるコンサートにする予定だよ。律に対する俺の想いを全部このリサイタルに込める」
そんなことを言われると、僕もワクワクが止まらない。
奏佑は僕への特等席として、最前列のピアノの目の前の席を特別に確保してくれた。僕はすっかり有頂天になって、奏佑のリサイタルのために一張羅を洋服ダンスの奥から引っ張り出して着ていくことにした。
僕は指定された客席の最前列、ピアノの真ん前に座り、プログラムを見た。何と、そのプログラムはオール・リスト・プログラムになっていた。
前半は超絶技巧練習曲から、数曲をセレクト。加えてあの『トリスタン』から『愛の死』で終わる。
後半はコンクールで優勝した時に弾いたピアノソナタだ。『愛の夢』はないのか。僕はその一点だけが少し残念だったが、全て僕が常々好きだと公言していた曲たちだ。
客層を見ると、やはり奏佑のルックスゆえか、若い女性が多い。こんな若い客の多いクラシックコンサートなんて見たこともなかった。まるで、男性アイドルのコンサートのような雰囲気だ。
客席の照明が落とされ、奏佑がにこやかな表情でステージに現れる。客席にいた女子高校生くらいの若い客の数人からそれだけで歓声が上がった。おいおい。ここはアイドルのライブ会場じゃないんだぞ。
僕は半分呆れつつ、奏佑を拍手で迎えた。奏佑はピアノの前で一礼すると、目の前の僕にそっとウインクすると、ピアノの前に座った。僕はそれだけでとろけてしまいそうになった。
だが、そんなロマンチックな気持ちは、奏佑の演奏が始まると吹き飛んでしまった。
超絶技巧練習曲第一曲『前奏曲』から奏佑の演奏はアクセル全開だ。これほどまでに完璧なヴィルトゥオーゾの高校生は今まで見たことがない。小さなホール全体が揺れ出すのではないかという程の力強さ。ピアニストでさえ演奏するのに苦労するこの難曲を物凄い早さで駆け抜ける。プレスト(非常に早く)という指示はあるものの、ここまで早く演奏した人を僕は知らない。一切乱れることのない難パッセージの数々をいとも簡単に料理していく様子は最早職人技だ。
続く『愛の死』。この曲を奏佑の演奏で聴くのは実はこの時が初めてだ。僕が奏佑への恋心を自覚することになったオペラ『トリスタンとイゾルデ』。トリスタンへの愛が高まり、その愛の中に死んでいくイゾルデの情景がまるで目の前にあるように思い浮かぶ。
トリスタンとイゾルデの愛の物語が、奏佑のピアノの音によって昇華していく。まるで、僕自身がイゾルデになったような、奏佑への愛がこの調べに乗って昇華していくような、そんな感覚に陥る。僕は小さな声でイゾルデのパートを口ずさんだ。
前半だけで、僕の心はいっぱいいっぱいだったが、ここからが奏佑の真骨頂だ。
あの全国大会の本選で僕へと捧げられたピアノ・ソナタ。それが、再び僕へと捧げられるのだ。あのコンクールの会場で聴いた、まるでピアノが唸りを上げるような第一主題。第二主題に移行すると、まるで煌めくような甘美な響きが、聴衆を天上の世界へといざなう。
曲の強弱緩急を巧みに弾き分け、曲はクライマックスへと向かってまるで勝利を宣言するファンファーレかのように響き渡る。
奏佑は汗を飛び散らせながら渾身の音を響かせていく。それまでの熱狂から一転、曲の終結部の消え入るようなサウンドが、奏佑の熱演に心を奪われ、しんと静まり返った会場に溶けるように消え入った。
一瞬の静寂。誰もが彼の演奏に聴き入り、拍手をすることさえ忘れていた。まばらに聴衆の一部から拍手の音が鳴り出すと、皆、思い出したかのように拍手を始める。ここから会場は興奮の渦に包まれた。
何度も何度も続くカーテンコール。奏佑はファンとして集まった女性客から花束を抱えきれないほどもらい、顔も隠れるほどだ。
僕は最早放心状態で、ただただ夢見心地のまま座っていた。何度目のカーテンコールだろう。奏佑はもう一度ピアノの前に座った。
彼がアンコール弾き始めた曲。それは、あの『愛の夢』だった。彼が僕のためにと捧げたリサイタルの最後の曲。この会場に集まった聴衆の中でたった一人、僕のためだけに、僕への愛を皆の前で示すために、この曲が演奏されたのだった。
僕は涙が止まらなかった。そんな泣き出した僕を見て、奏佑はニヤリと笑みを浮かべた。
ちくしょう。憎い演出をしてくれるよ。
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