第一章 月の光に照らされて

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第一章 月の光に照らされて

 手に汗がじっとりと(にじ)む。握りしめた白いハンカチも、僕の汗でじっとり湿ってきた。  僕の直前の出場者が緊張した面持ちでステージに向かって歩き出す。  僕の出番は次だ。  目を閉じ、自分に集中する。周囲に惑わされてはダメだ。絶対に失敗は許されない。今年こそは、このピアノコンクールで全国大会へ駒を進めてみせる。  僕は目をつむり、頭の中に鍵盤をイメージしながら何度も指を動かす。  何回も練習を重ねた速いパッセージ。再現部の前の一番の見せ場。ヴィルトゥオーゾとしての腕が試されるリスト『愛の夢』で一番のヤマ場だ。そこさえきらびやかに弾き切れば、もう誰も文句など言わないだろう。  コンクールの課題曲の中で、一番苦労したこの曲。この手の曲調は嫌いだ。同じリストなら、もっと難易度が高くても恰好いい(ちょう)(ぜつ)()(こう)(れん)(しゅう)(きょく)の方がよっぽどいい。ショパンだのシューマンだの、ああいう女々しい曲調が気に食わない。  もっとフォルテッシモ主体で駆け上がるようなダイナミックな曲調がいい。巨大なコンサート用グランドピアノ全体が(うな)り出すような、そんなダイナミックな曲が。  前の人が弾き終わり、拍手が鳴り響く。次が僕の出番だ。前の出場者の女の子は舞台袖にはけるや、ハンカチで涙を拭っている。うまくいかなかったのだろうか。  僕は、そんなヘマはしない。僕は大きく息をひとつ吐くと、明るく照らし出されたステージへと歩み出した。  絶対にミスタッチをしない。僕はそう自分に言い訊かせながら、ピアノの前に座った。目を閉じ、深呼吸をする。  いくぞ。  僕は鍵盤の上に指を乗せた。  それからの記憶はほとんどない。僕は、ただがむしゃらに鍵盤の上で指を動かし続けた。気が付けば、最後の和音を弾き終わっていた。  僕はこの日の出来に(おおむ)ね満足していた。なんとかミスタッチも最小限に抑えてやり通すことが出来たからね。  ピアノを弾いてみた感想? 別にそんなもの何もないよ。  ただ楽譜に書かれた通りに鍵盤の上で指を動かすだけ。正確に楽譜さえなぞっておけば、それだけで十分だ。ミスをしなかったのだから、今日の演奏はうまくいった。誰もそれに異論を挟むことなんか出来ないだろう?  僕はホッとする感覚と共に客席の方を向き、お辞儀をした。審査員は表情一つ変えることなく、僕の評価を書き込んでいる。  絶対に僕を優勝させろよ。ここまでやってやったんだから。  僕はそう思って彼らを見やった。  舞台袖にはけると、僕は安心し、全身の力が一気に抜けた。ペットボトルの水を一気に飲み干す。ピアノの演奏もある意味体力勝負だ。弾き切った僕の額からは汗が(したた)り落ちていた。心地よい疲労感と達成感にひたりながら、僕は外の空気を吸いに出た。  ホールの中の息詰まるような緊張感から解放された外の空気は格別だ。差し込む木漏(こも)()の暖かい光が僕の全身を優しく包む。小鳥のさえずりを聞きながら、僕はベンチに一人座って目を閉じていた。 「(りつ)くん、素晴らしかったよ」  そう声をかけられた僕が目を開けると、同じピアノ教室に通う()(しろ)(ここ)()が僕の前に立っていた。 「ああ。どうも」 とだけ僕は返事をした。  彼女とは長年の付き合いになる。僕がピアノ教室に通い始めた五歳の時に、同じくピアノを習い始めた同い年の女の子だ。僕のレッスンが彼女の後だったり、またその逆だったりすることも多く、顔見知りの生徒だ。だが、特別な存在というわけでもなく、ただの大勢いるピアノ教室の生徒の一人だった。  今日は彼女もコンクールに出場している。  しかし、僕の実力は彼女よりずっと上だ。今日だって他の人に負けることはあっても、彼女に負けることなどありえない。彼女はいつもこうやって僕の演奏を褒めてくれるが、それは当然のことだろう。僕の方が上手いのだから。  だが、今日の心音はいつもと違った。  普段であればあそこがよかったとか、ここのパッセージがきれいだったとか、うるさく僕の演奏を講評して来る所だ。だが、今日は「素晴らしかった」以外の言葉を紡ぐこともなく、ただそこに黙って立っている。  見ると、彼女の顔は少し赤く紅潮していた。何考えてんだ、こいつ。そんな彼女に()したる興味もなかった僕は、ベンチから立ち上がった。 「僕、客席に行っているよ」  そう言って歩き出そうとすると、彼女がいきなり、 「律くんのことが好きです!」 と叫んだ。 「は?」  僕は極めて不快な気持ちに陥った。  「好き」なんて感情を持たれても、僕にとっては迷惑でしかない。愛だの恋だのそんなくだらないものに惑わされているから、ろくな演奏ができないんだ。しかも、そんな恋心がこの僕に向けられているとは、何と面倒くさいことだろう。  僕が不機嫌な表情になるのを見た心音は今にも泣き出しそうな顔になった。ああ、面倒くさい。女の涙は武器だ、とよく言われるが、そんなものに僕は動じない。 「ごめん。僕はそういうことには興味がないんだ。他の男を当たれよ。もっといい男なんていくらでもいるだろ」  僕はそう言い放つと、心音に背を向けて歩き出した。 「もっといい男の人なんていないよ!」  そんな僕の背中に心音が叫んだ。 「わたしはずっと律くんの演奏が好きで、律くんがピアノを弾いている姿が好きで、ずっと律くんのことだけを見て来たの。他の男の人じゃだめなの。律くんじゃなくちゃだめなの」  嫌なこった。  心音はそんな面倒な感情を何年僕に抱いて来たというのだろう。  フランツ・リストも『愛の夢』なんて曲を作るんだったら、ロマンチックなメロディーを紡いで夢心地に浸るんじゃなくて、もっと恋だの愛だのといったものなんかくだらない一時の気の迷いだと表現してやればいいのだ。そう。愛など(ただ)の「夢」だとね。  ピアノ・ソナタロ短調のようなあんな激しくて恰好いい曲を書く人なのに、『愛の夢』のような曲も作曲しただなんて、どういう思考回路をしているのかがわからない。 「ああ、もうそういうのいいから。何度も言うけど、僕は恋愛なんてしないし興味ないよ。そんなことに気を取られている暇があったら、練習でもすればいい」  僕はそう言い捨てると、心音を残してホールの中へ戻って行った。
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