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「オレは騙された、騙されたんだよ。うちのクソオヤジにぃっ!」
――だんっ!
同僚の河野は、握りこぶしをテーブルに打ちつけて大げさに嘆いて見せる。
隣に座っている前田祐一は、ある種の居心地の悪さを覚えながら、周囲をみまわして肩身の狭い思いに耐えた。
居酒屋の一室で喚く同僚と、慰める自分。
同期で既婚、河野と前田の共通点はこの二つだけ。
だが、この二つだからこそ話が進んだ。
「そうだね。だけど、つわりは悪化すると悪阻になって最悪嫁さんは死ぬし、出産費用はだいたい50万円の全額負担。生理は病気じゃないけど、子宮だけじゃなくて、周囲の内臓の古くなった細胞を収れんさせながら引っぺがすから、体調が悪くなるのは当たり前で、女性は痛みに強いからって、殴って躾けるのは明らかなDVだよ」
あぁ。自分は何を言っているのだろう。
前田は言葉に出来ない情けなさで頭が痛くなる。
こんなんだから、嫁さんに逃げられるのだ。
「だけど、親父は言ったんだ。女房は殴って躾けるのが普通だって。死んだ母さんは、親父の実家にある納屋でオレを産んのだから、嫁さんを入院させる必要はない。金のムダだって」
「いや、それに何年前の話だよ。というか、お前の母ちゃんは死んだんじゃなくて、お前の父ちゃんに殺されたんじゃないの? 痛みに強いからって死なないわけじゃないだろうに」
前田の言葉に、増々絶望を深めていく河野は――。
「ちくしょおおおおっ!!! みんな親父のせいだ。親父がオレをずっと騙していたから、オレはこんな目に遭うんだあああああああっ!!!」
「……」
絶叫する同期に、前田はかける言葉を失った。
そして自分の両親が、いたってまともな常識人であることに内心で胸を撫でおろした。
騙されたと嘆いているが、時代は進んで常識はパソコンのOSのように常時アップデートされていく。
自分の常識に疑問を持たず、進んで学習しない人間は、河野のように周囲の人間を不幸にして自ら壮絶な恥をかくのだ。
――オレは同じ轍を踏むまい。
前田は自分の幸福を「騙された」と嘆く河野を通じて噛みしめた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
数日後。
予約した中華料理店で、前田祐一と妻の佐良子が、回転する丸いテーブルに座っている。
前田はどうしてこうなったのか分からない。
今すぐ妻を問いただして、事としだいをつまびらかにしないといけないのに、言葉が喉につかえて無様に口を開閉させた。
「それでは、家族会議を始めましょう」
ニコニコと良い笑顔で佐良子が仕切る。
「祐一さんは、結婚したら自分の両親と、同居するべきとおっしゃっていました。三年以内に子供を作ることも含めて嫁の務めだと。それについては、私も同意見です。コロナ禍で話が流れてしまいましたが、おかげで祐一さんのライフスタイルと年収では、現状で到底子作りは難しいと結論が出たのです。ですから、みなさまのお力を貸してほしいのです。どうか、お父さん、お母さん、お願いしますっ!」
それは、どちらの父と母を言っているのだろうか。
前田は聞くのが恐ろしくなった。
丸テーブルに座っている3組の夫婦。
△を描くように、等間隔の距離をあけて、頂点の位置に祐一夫婦が左右にお互いの両親が座っている。
前田夫婦は息子を睨みつけて「聞いていないぞ」と小さくつぶやいた。
対する嫁の実家である有野夫婦は、余裕の態度で微笑する。
「つまり佐良子ちゃんは、祐一くんを含めた私達両親と同居したいわけね。たしかに、子育てと働き手が四人も増えればいろいろ余裕ができるし、すぐ佐良子ちゃんも仕事に復帰できるから、折角積み上げたキャリアも失わずにすむわ」
と。佐良子の母は、白々しいほどの笑顔で言った。
父親の方も頷いて同意し、笑顔が消えた前田夫婦に微笑みかける。
「私も早く孫の顔がみたいから協力しましょう。ところで、前田さんの定年退職はいつごろでしょうかな?」
いきなり有野に水を向けられて、前田の父は羞恥の怒りで顔を赤くする。
「ちょうど今年ですが、それがなにか?」
挑むように答える父親に、息子の方が恥ずかしくなった。しかも、原因が自分の言動であるから逃げ場がない。
「私はすでに退職しましたが、退職金は手つかずのままです。どうでしょう、私達の退職金から娘夫婦と私達の三組が暮らす、複合住宅を購入いたしませんか? 今後のことを考えるとバリアフリーにリフォームすることも考えつつ、祐一くんや娘が職場に通いやすい都心がいいでしょう。購入したらしたで、私や妻も働きますし、当然、前田さんも働きますよね?」
やめてくれ。そんな大事な話を、勝手に進めないでくれ。
助けを求めるように、前田は佐良子に視線を送るが妻の方は笑顔を維持したままだ。
「え、働くの?」
素っ頓狂な声を上げる前田の母は、顔を青ざめさせて息子を見る。息子の方は母の視線に耐え切れず、うつむいてテーブルに視線を固定させた。
「えぇ、そうです。共働きだった佐良子が妊娠した場合、孫の将来のためにも、祐一くんは稼ぎを二倍三倍も増やさなければならないですし、当然身動きが取れない妻の為に家事もしなければなりません。私たち四人が人手となって家事を担い、職に就いてローテーション制にすれば、孫が抱ける日も近いでしょう。このご時世、定年を過ぎても働ける枠は拡大しています。どこも人手不足ですから今まで専業主婦だった人でも十分働けるように――」
「そんなのイヤよっ!!! そんな同居なんて、冗談じゃないわっ!!!」
嫁父の提案に、前田の母が耐え切れずに席を立った。
専業主婦であることが、唯一の誇りだった前田の母にとって、有野の提案は耐え難いものだった。
「同居の話は永遠にナシにしよう。それと祐一、お前、自分の立場が情けないと思わないのか? こんなわかりやすい茶番仕組むほど、嫁さんを追い詰めるなんて最低だぞっ!!!」
「そんな……ちがっ」
テーブルに身を乗り出して凄む父親に、前田はなんとか弁明を試みようとしたが、怒りで燃える父の瞳に睨まれて無様に固まってしまう。
結婚したら自分の両親と同居するべき。
三年以内に子供を作ることも含めて嫁の務め。
それは前田の父と母が、折に触れて息子に繰り返していた言葉なのに、当の本人たちは自分たちの言動を忘れて、ヒステリック騒いで被害者面をする。
知った瞬間に暴かれた虚像は、前田の甘い理想をせせら笑い、どうしようもない現実が顔をだして「ざまーみろ」と舌を出すのだ。
「あーあ、帰ってしまったねぇ。それじゃあ、しかたがない。私達の夫婦との同居話を進めようか」
「――え」
これは、同居話を阻止するための茶番ではなかったのか?
普通に話を進める有野にイヤな予感がした。
前田は嫁を見るが、佐良子は当然のように言い放つ。
「どうしたの? だって結婚したら、自分の両親と同居するべきでしょ?」
「っ!!!」
前田は声にならない悲鳴をあげて、頭を左右に振り乱した。
嵌められた。騙された。
気づいた時には遅かった。
【了】
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