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初デートは船上の皇族席で
運河の向こう岸にある街の明かりが、地上にこぼれ落ちた星のようにチラチラ瞬いていた。
サーカス船の甲板はすでに観客で溢れ、楽団が賑やかな音楽を奏でている。時々サーカス団員がからかい混じりに舞台に上がっては、宙返りしたりジャグリングしたり、わざと失敗したりして客を笑わせる。
わたしはその様子を一段高い皇族席から眺めていた。
毎年トッツィ領に寄港するリンカ・サーカス団。わたしはいつも祖父のとってくれる最前列のVIP席に座っていたけれど、あの席より特別な場所があるなんて思いもしなかった。
考えてみればこのサーカス船は皇族から特別許可を得ているわけだし、皇族席がないほうがおかしい。でも、わたしが一人でここにいることの方がもっとおかしい。
それにしても、こうして上から会場を眺めてみると改めて船の大きさを実感する。円形舞台が船首寄りにあって、船体の中ほどに舞台を扇形に囲う階段状の観客席。わたしがいる皇族席はその観客席後部に迫り出している。
皇族観覧席のソファは座り心地も格別だった。背後の扉の向こうには船内へと続く階段と、一枚の扉がある。その扉の奥は一、二泊程度なら不便なく寝泊まりできそうな部屋。
シュレーゼマン卿が今夜その部屋にわたしを誘うつもりはないだろうけれど、逃げ道は確保しなければと探索したら案外簡単に逃走できそうだった。
皇族観覧席は部屋の周囲をぐるりと囲う通路とひとつながりになっていて、一周すれば三百六十度の夜景がたのしめる。張りめぐらされた柵も腰ほどの高さで、普通の人間なら躊躇うかもしれないけれど、獣人の身体能力をもってすれば柵を乗り越えて甲板か観客席に着地するのは余裕だった。
安全面への配慮が足りない気もするけれど、本物の皇族が来るときには護衛騎士で通路を固めるのだろう。そんな場所を独り占めしているのはかなり貴重な体験。
柵に頬杖をついて雲間の残照を眺めていると、鳥影が目の前を過っていった。
楽団は舞台から降りて船首の方へ移動し、「もうすぐ開園時間となります」とアナウンスが聞こえる。真昼のようだった照明が落とされると一瞬ざわめきが起こり、ドラムロールで歓声に変わった。
二本尾の白虎にまたがった道化師がスポットライトを浴び、拍手の中シルクハットを脱ぐ。開幕の挨拶がはじまっても、わたしをここに呼びつけた相手は姿を見せる気配がない。
「もしかして、すっぽかされた……?」
案内係には伝えてあると祖父に言われ、その案内係に連れて来られたけれど、本当に皇族席を使っても良かったのだろうか。罪に問われて捕まったりしない?
急に不安になって階段への扉を開けようとした時だった。
「あれ、どこに行かれるんですか?」
男性の声は扉の向こうではなく皇族観覧席から。
「遅くなってすいません、マリアンナ様」
男は左舷側の柵に手をかけてわたしに微笑を向けていた。中肉中背、派手さのない顔、着ている服もパッとしない。風になびく青い髪が彼のすべてのようだ。
「シュレーゼマン様ですね。いつのまにいらしたのですか?」
どこかに隠れるところでもあったのだろうか。
「たった今着いたところです。開幕に間に合ってよかった」
間に合っていません、と言いたいのを我慢する。
「あれ、飲み物がないようですが、案内の者が言いませんでしたか? ワインでもシャンパンでも中にあったのに」
聞いた。聞いたけど、
「わたし一人で先に(皇族のために準備された飲み物を)飲むわけにいきませんから」
「そんなにかしこまる必要はありません。気楽に話したくてリンカ・サーカスでお会いしたいと言ったのですから。ほら、わたしの平民服も板についてるでしょう?」
たしかに貴族らしい煌びやかな服よりこの男にはチュニックにズボンという街中で見かけるスタイルが似合いそうだった。ここぞとばかりに頭のてっぺんから足先まで観察し、最終的にわたしの視線は彼の腰にとまる。
「平民は剣など差しません」
「これでも一応騎士なんです」
「紫蘭騎士団の副官就任が内定してらっしゃるとか」
「会長から聞いたんですか? 内緒にしてって言ったのに」
笑いながら彼は扉を開け、部屋からワインとグラスを手に戻ってくる。わたしをソファに誘うと、当たり前のように隣に腰をおろした。
「今夜は気楽にいきましょう」
舞台上では白虎が風を起こし、サーカス団員がバケツから放った水を冷気で凍らせている。この後は果汁を凍らせて子どもたちに配るはずだった。
もう何回も観ているリンカ・サーカスの公演。序盤のプログラムはほとんど変わらないからすべて頭に入っている。繰り広げられる見慣れたショー。いつもと違うのは目線の高さ。
「VIP席は涼しそうですね」
「涼しいですよ。この後ジュースを凍らせて子どもに配るんです」
「その後は?」
「フクロウ魔獣のショーがあります。観客の一人が舞台にあがって、頭の上に乗せた果物を目隠ししたフクロウが獲るんです」
「その次は?」
「イタチの熱波でチーズを溶かして観客にチーズパンを振る舞います」
「へえ! そんなことするんだ。この席にも持ってきてくれるといいですね」
シュレーゼマン卿は無邪気な顔で舞台を眺めていた。わたしは彼の横顔にルース少年を重ねようとし、そして、どうがんばっても彼の顔がハッキリ思い出せないことに気づいた。
覚えているのは青い髪、差し出された手、わたしの心を掴んだ甘い言葉、わたしを突き落とした苦い言葉。
「シュレーゼマン様は」
「あっ、スクルースと呼んで下さい。スクルース・シュレーゼマンです」
「……マリアンナ・トッツィです」
今さら名乗り合うなんて礼儀もマナーもあったものではない。
「マリーと呼んでも?」
「それは……」
「いけませんか?」
首をかしげる仕草が昨日別宅に来た小鳥みたいだった。油断した途端、スクルースが思わぬ質問を口にする。
「マリーはザルリス商会の人と結婚するつもりなんですか?」
「会長から聞いたのですか?」
「噂です。貴族と結婚するつもりはなくて、商会の平民と結婚すると公言しているとか。貴族からの求婚をことごとく断ったとも」
「求婚があったのはデビュタントの舞踏会の後だけです。ここ数年は縁談などひとつもありません。けれど、そのような噂をご存じならどうしてわたしに結婚を申し込んだりなさったのです?」
うーん、と彼はワイングラスを回しながら考える。
「欲しかったから、……でしょうか?」
疑問形?
「わたしがザルリス商会会長の孫だから?」
「それもあります。会長には色々お世話になったし、あの人のこと好きなんですよね。お茶目だし、腕っぷしが強いし、商才もあるし、懐が深いし」
「では、会長に求婚されたらいかがです?」
つい皮肉を口にすると、彼は目をぱちくりさせてアハッと笑った。無邪気な、裏のない人間だとアピールしたいのだろうか。
「どうせ結婚するならかわいい女の子の方がいい」
「お会いしたこともなかったのに、わたしがスクルース様のお眼鏡にかなうような容姿をしていなかったら求婚を取り下げるおつもりだったのですか?」
「マリーがかわいいのは知ってたよ。どうして変装してるのかわからないけど、今夜はかわいいっていうより美しいね」
ウィッグと気づいているらしく彼はわたしの髪に触れ、防御魔法の付与されたイヤリングに手をとめた。ほんのり頬が赤い。口調も最初よりかなり砕けているし、酔いがまわったのだとしたらずいぶん酒に弱い。
「この魔法具は、ぼくが警戒されてるのかな?」
「祖父が選んだものです。スクルース様ではなく魔獣を心配して」
ああ、と彼は舞台に目をやった。観客席には氷菓を配るサーカス団員の姿が見える。白虎が舞台袖に引っ込むのと入れ替わりに、サーカス団員に手を引かれて小さな男の子が観客席から舞台にあがった。そしてフクロウ魔獣を腕に乗せた男性が現れる。
「あんなかわいらしい魔獣でも、近くで見ると迫力があるでしょうね」
「……そうですね」
「あの男の子、泣き出しちゃうんじゃないかな」
「もしかして、会長から何か聞きましたか?」
「何をですか?」
「いえ、聞いていないのならいいです」
ワアッと歓声があがり、リンゴを掴んだフクロウは観客席の上を旋回して適当なところで客の手の上に落とす。男の子が席に戻るとフクロウの獲物は果実から小動物に変わり、羽ばたきで繰り出される魔力で大型のラットが腹を上に向けてひっくり返った。
フクロウの魔力については詳細が解明されておりませんが敵の平衡感覚を失わせる力があります、と道化師が説明する。気絶したラットを見たあとだったらわたしは舞台に上がらなかったし、たぶんさっきの男の子もそうだろう。
この後は丸太の輪切りのような大きなチーズブロックを持って団員が出てくる。トロトロのチーズパンを頭に思い描きながらワイングラスに口をつけていたら、
「さてと」
とスクルースがソファから立ち上がった。
「どうされたのですか、スクルース様」
「ちょっとね、飛び入り参加」
エヘッと笑った彼の顔がスポットライトで照らされた。観客の視線が皇族席に集中する。
「みなさま、本日の飛び入りサーカス団員はあちらでワインを飲んでいるようです。酔っ払ってしまう前に降りて来てもらいましょう」
舞台上の道化師はパチンと指を鳴らした。
ドラムロールが聞こえ、スクルースは片手を柵について観客席に飛び降りる。わたしが柵から身を乗り出して下を見ると、彼は「行って来まーす」と手を振って通路を駆け下りていった。スポットライトがスクルースの姿を追う。
「さて、彼のことをご存じの方はいらっしゃるでしょうか」
道化師は大げさな身振りをつけながら観客席を見回す。
「リンカ・サーカス団に彼が在籍していたのはもう九年も前のこと。その最期の年に寄港したこのトッツィ領で、彼は一人の少女に誓いを立てたのです。大人になったら迎えに来る、と」
いったい何が起こっているのか、混乱しながらわたしはスクルースの姿を目で追っていた。軽い身のこなしで舞台上にあがると、彼は慣れた様子で観客にお辞儀する。
「さて、彼の名前はルース。お客様の中に九年前のルース少年と幼い少女の恋物語をご覧になった方はいらっしゃいますか?」
観客席からはチラホラと手があがる。ザルリス商会の古参の人たちだ。
「ほう、思ったよりたくさんいらっしゃるようですね。ではルース青年、あのときの少女は今どちらに?」
「あちらに」
彼が皇族席を指さすと、一斉にわたしに注目が集まった。脳裏に蘇る苦い言葉。
――マリーのおかげですごく観客ウケが良かった。
「おや、ルース青年はすでにあの少女と結ばれていたのですか?」
「いえ、まだお返事をいただいてません。このショーの後に返事をいただければと思っているのですが」
「なるほど、プロポーズの返事待ちなのですね。ではお嬢様、ルース青年はこう言っていますが、どうでしょう?」
道化師の質問がこちらに向けられる。
「お・こ・と・わ・り・です!」
大声で宣言した瞬間ドッと観客席が湧いた。盛り上がるほどルースの思惑通りのような気がして腹立たしい。
「そんなこと言わないでよ、マリー。このショーを見れば、あの日のことを思い出してくれるから」
思い出してもお断りだ。九年経ってもこの男には女心が分からないらしい。
「ルース青年はさっそくフラれてしまいましたが、マリー嬢の心を取り戻すべくがんばってもらいましょう」
パチン、と道化師が指を鳴らすと、九年ぶりに光の鳥カゴのような結界が舞台上に現れた。ルースはズボンの裾をまくり上げてブーツに突っ込み、仕込まれたナイフが露わになる。結界内には色とりどりの蛇が放たれ、観客席から悲鳴と歓声があがった。
あの夜のようであの夜のようでないのは、ルースが大きくなったせいとわたしがこんな高い場所にいるからだ。
最初の一匹が跳ねてルースに飛びかかったとき、わたしは柵を飛び越えて観客席に着地した。ラーニャの着付けが少々乱れたけれど、サッと直して通路を駆け下りる。男爵夫人のようにドレスを着ていたらこんなことはできない。
宙返りしたルースの視線がチラッとわたしを捉えたようだった。通路脇の観客がざわざわと騒ぎ、結界の外に立つ道化師もようやく皇族席の異変に気付く。
「ルース青年の元にマリー嬢が駆けつけたようです。毒蛇との対決やいかに、少年少女の恋の結末やいかに」
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