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高校時代、体育館での練習中、部員たちの声が飛び交うなかで、青木のパスを受け取るのはおれが一番多かった。弱小だったけど全員バスケは好きで、遊び感覚でよく居残った。先輩、と呼ばれたら振り向いた。校内の廊下でも、練習中でも、おれがひとりで帰ろうとしても、青木はおれを呼び止めた。
青木は、いつもそこにいた。
おれの過去も、青木への思いも、いくら噛み砕いても変えられないし、抗えないことを思い知った。
「青木、今から店に来てよ。おまえの髪、切るから」
うん、と青木は言う。
体育館に鳴り響くバスケットボールの音が、突然聞こえる。電話を切り、窓の外を見る。
雨だ。
窓に、ひっきりなしに雨粒が当たっている。
スタッフルームから、おれ以外のスタッフが去っていく。店長には事情を説明しておいた。言い訳としては無難に、青木から急に予約が入った、売上はあすに回して金庫に保管しておく、と。もとより、半分以上まちがっちゃいないけれど。
以前のブラック店にも青木は来店していて、店長も彼をよく知っている。特別不審がられた様子はなかった。miuは基本的に、常識的なルールを破りさえしなければ自由だ。
「瑞樹、鍵だけよろしくな」
「はい、きょうはすみません。ありがとうございます」
店長は、かぶりを振った。アシスタントのふたりは、出て行ったあとだった。
「俺さあ、坂本美雨の声が好きって言ってたじゃん」
店長の、突然の台詞にぽかんとする。
「店の名前」
ああ、そういえば。ただ、彼の言葉の意図が掴めない。
「瑞樹が店辞めた日、雨降ってたの覚えてるか? あの日、おまえのこと誘う気なかったんだよな、ほんとうは」
「え、まじすか」
あの日のあの時間は、たしかに雨がぽつぽつ降っていた。帰宅したときには、どしゃ降りに変わったのを覚えている。空が灰色にけぶって、真っ昼間なのにまるで時間が反転したように薄暗かったのを思い出した。
「瑞樹は見どころあったしうまかったし、でも俺の博打につき合わせるつもりはなくてだな。ただ、美しい雨が降ったんでね、こりゃ誘えって天の神様が言ってんだなって思ったんだ」
「なんすか、それ」
「おまえ真面目だけど、いつもどっかくすぶってんの」
え? と勝手にもれた呟きに、店長は慈しむように目もとを緩ませた。伸びてくる手は、おれの頭に落ちてくる。
「おまえは俺の教え子だからよー、やっぱ心配なんだよ。あしたは晴れるといいね」
お疲れさん、ぽんぽんと強めに頭を叩き、彼は背を向けた。ありがとうございます、と背中に向かって呟く。彼は手を振った。昔からいつもおれを、おれだけじゃなくてスタッフ全員の惑いや不安を、さりげなく掬ってくれるひとだったと思い出した。
あしたは晴れます。……たぶん。
最後、ちょっとだけ弱気になる。どう転ぶにせよ、おれと青木の関係は変わってしまった。なあなあで終いにするなら、蒸し返すように謝罪に言及しなかった。青木だって同じ。だからもう、万年片思いはきょうで終えてやる。
ふーっと深く、ぎりぎりまで息を吐いて、腹に力を入れる。一度気合いを入れ、スタッフルームを出た。
ちょうど、入り口付近にひと影があった。傘を差した青木だ。明るい店内からは闇夜がよく見え、青木の姿や雨のなかを歩くひともはっきりわかる。おれも、紛れこむだれかになりたかった。
ただ好きなひとと、ささやかな日常を歩きたかった。
彼に手を上げると、店のドアが開いた。
「こんばんは」
「こんばんは。どうぞ」
奥に促すと、青木はすぐ、セット面ではなくシャンプー台に向かった。彼はわかっているからだ。おれがなにも聞かないことを。
シャワーを頭に流せば「きもちー」と彼は声をふやけさせた。「時間外サービス一割増しでいただくんで」普段通りの口調でしゃべると青木は、「やべえどんなサービス待ってんの」とくつくつ笑った。
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