雨をすぎれば

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 ぶわっと一気に戦慄が駆け抜け、気がついたら北村さんの手を取って走り出していた。変装はしていた。でもしょせん伊達メガネとニットキャップとマスクだ。見知った人間がじっと見つめればわかるだろうし、こうして逃げ出した時点でおれだと告げているものだった。いやそれ以前に、おれが青木の名前を呼んでしまっている。  先輩、アウトー。  年末恒例のバラエティー番組のナレーションが、頭に響く。  ばか、ばかばかばか。逃げたら終わりだろバレバレだろ素知らぬ顔で人ちがいのテイを装っておけばよかっただろ。青木を凝視したおれがバカだった、いやだから名前を呼んだのがそもそもまちがいで、つーかなんであんなところをひとりで歩いてたんだよ。  大通りに出てから振り向くと、青木はいなかった。追って来る気配もなく、胸を撫で下ろす。みだれた呼吸を必死に整え、曇ったメガネと熱がこもったマスクを外す。右手に妙な違和感があって、動かしづらい。 「あ……」  しまった。北村さんを引っ張ってきていた。繋いだ手を慌てて離すと、彼はおれを見下ろして、あろうことか高揚した笑顔を見せる。弱みを握られた気分で、後味が悪い。 「すみません。まちがえました」 「はは! まちがえたってひどくないっすか?」 「ですね、ほんとにそう思います、このたびはご迷惑おかけして大変申し訳ございませんでした、そんじゃおれはこれで」  踵を返すと手首を取られ、足止めを食らう。 「ちょっと待った! そりゃないでしょ!」  ですよねー、おれもそう思います。ははは、と渇いた笑みを漏らすと、北村さんは微笑んだ。ネクタイを緩め、ボタンをひとつ外す。 「とりあえず、コーヒーでも飲みません?」  彼は、すぐそこのコーヒーショップを親指で示した。  大窓からでも見て取れたが、二十三時近くでも店内にはぽつぽつ客入りがあった。ひとりきりの時間や他愛ない会話に、こういう場所はちょうどいいのかもしれない。おれも北村さんもブレンドを注文し、受け取ってから席に座った。ひと口飲んだところで、切り出したのは彼だった。 「オレってもしかして、巻き込まれたっぽいですか?」 「まあ、はいそうです、すみません」 「はははー、はっきりしてる。いいなー」  ことさらきまりが悪い。わざわざ北村さんを引っ張って走る必要はなかった。でもあそこで彼を置いてひとりで逃げたとして、万が一青木が北村さんに問いただすことを想像したら、こわかった。北村さんはうまくごまかしたかもしれないし、青木だって素通りで終わる可能性もあった。けれど揉めごとになる原因は排除したくて無我夢中だった。我ながら浅ましい。結局こうして彼を連れて逃げていたら一緒なのに。  ああああー、と心のなかで頭を抱える。 「さっきも言いましたけど、オレは坂本さんとまた会いたいんです。なので、ちょっとラッキーと思ってます」 「え?」 「坂本さん、メシ食ってるときから一度もオレと目ぇ合わせませんよね? セックスの最中だって、目を閉じるか逸らすか。そのくせかーなーり大胆だし、ノリノリだし、だれか別のひとのこと考えてんだろなーって」  図星だ。痛いところを突かれ、コーヒーを飲んでごまかすしかない。 「声とかめっちゃかわいいし、うなじとかやべえし、好みなんですよ。坂本さんのこと」  やめてほしい。困る。割り切ってくれよだから。 「おれは好みじゃないです。ついでに『坂本』も偽名だし、あんた以外にもほかにこういう相手いるんで。悪いんですけど」 「オレは北村透っていいます。坂本さん、ほんとうの名前はなんですか?」 「いやだから、おれの話聞いてます?」  北村さんをにらむと、彼はこともなげに笑む。 「やっと見てくれましたね、オレのこと」  一枚も二枚も上手な会話の進めかたが癪に障り、思わず乱暴にカップを置く。ごとりと鳴ったのがひどくやかましくて、耳障りだった。
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