雨をすぎれば

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 手をつけていないおにぎりを木下に渡した。わーい、と彼は素直に喜び、旺盛に頬張る。うまいだろ、いい焼き具合なんだよ。  青木にも、何度かつくったことがあった。うちで家飲みして、そのまま寝落ちして、だらだら起きて来た青木にインスタント味噌汁と一緒に。彼は喜んだ。「先輩うまいよまじで」と口いっぱいに頬張ってくれたのが嬉しかった。  青木も今ごろ、昼休みだろうか。思えばくだらない話ばかりで、あいつがいつ昼食を食べているかもなにを食べているかも、聞いたことがなかった。特に「欲求」に関することは、長いつき合いなのに知らないことだらけだ。  おれは結局「いいよ。いつもの店にいます」と返信していた。もう知らん、なるようになれ。  仕事を終え、この日はレッスンを休んでいつもの居酒屋に直行した。青木からすこし遅くなると事前に連絡があったので、入店とほぼ同時にあとからひとり来ることを伝えた。テーブル席に案内され、おれはさきにビールを注文する。ついでに、枝豆も頼んでおいた。どうせ注文するのだから。  一応連絡の有無を確認し、スマホをテーブルに置いた。ひとりでさきにちびちび飲んでいると、後ろの席の話し声が聞こえてくる。なかなかの声量で、自然と耳に入った。おそらく大学生と思われるふたり組が、恋愛話に花を咲かせている。好きなひとが振り向いてくれない、もう次行ったら? いやいやまだいけるっしょ、等々。傍から聞いているともう、頑張れとしか言いようがない。 「ねえ、おにいさん」  肩を叩かれ、おれのことか、と気づいた。 「ひとりで寂しくないっすか? 混じりません?」  ああー、酔っ払いだ。と半分呆れ笑う。 「そうしたいのはやまやまなんですけどね、もうすぐ連れが来るんで」 「えー? 彼女?」  しつこいなあ、と疎みつつ、友人です、と返した。向かいに座る男性が、おい絡むなよ、と彼をたしなめ、ぺこぺこ頭を下げた。 「じゃあさ、友達来るまで一緒に飲まない? ねえ?」  ああーめんどくせえー。いい加減腹が立ってきて、でも酔っ払い相手に本気で対応するのもあほらしい。やんわり断ろうとしたとき、おれの顔に影がかかる。反射的に見上げた。 「あ、青木。お疲れ」  青木が、ふたり組を見下ろした。 「俺の連れになんか用ですか? 代わりに聞きますけど」  酔っ払いは面食らったのか慌てて正面に向き直し、同席の男性はきまりが悪そうに会釈する。苦笑し、おれも椅子に座り直した。ぎぎ、と引きずる音が際立ち思わず息を呑む。青木は眉をひそめ、低い声音で店員にビールを注文する。あきらかに不機嫌なのが見て取れた。 「気ぃつけろよ。あんたまじで隙だらけ」 「気ぃつけるったって、勝手に話しかけられんだからしょうがねえじゃん。つかさ、隙だらけってどういう意味?」  ばかにしてんの? と楯突くと、青木は頭をがしがし掻いた。おれが男女問わず絡まれることはまれにあって、それは大概彼が遅れて来るときで、けれど高身長の青木があの口調ですごめば、ことを荒立てずに済んでいた。とうとつに、枝豆のひやりとした味わいが蘇って奥歯が疼く。先日の件が常に脳裏に居座っているからか、すべてのやり取りが気にかかって突っかかるような口ぶりになる。  こういうシーンに遭遇するたび、青木の歴代の恋人たちを羨んできた。恨めしくて、こめかみが痛くなる。こうして守ってもらえるのがふつうで、なにかが起きればさりげなく躱してもらえたんだろうな、と。じゃあ、ただの先輩のおれは? これからなにを言い渡されるのだろう。  もう会いたくない、気持ち悪い、の類いだったらどうしよう。 「ごめん、先輩とケンカしたいんじゃない」  お待たせしましたぁー、とビールが運ばれてきた。白い気泡が滑らかに揺れる。 「これから俺が遅れるとき、カフェかどっかで待ち合わせる? miuの近くにスタバあったし」 「え?」
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