雨をすぎれば

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 青木は、刺身の盛り合わせと揚げ出し豆腐、あさりの酒蒸しとなぜかおにぎりを注文した。今頼むの? と問うと、今食いたい、ときた。しかも、おにぎりさきでもいいですか? とつけ加えた。注文を終え、青木はビールに口をつける。 「これからって?」  だから、どうして、おれがひとり勝手に落ちくぼんでいるときに、未来の約束を簡単に、おまえは。 「いやだから、先輩が絡まれてんの見たくねえじゃん」  後ろの席が動いたのがわかった。どうやら帰るらしく、背後の気配が途切れる。変な寒々しさだけ空欄みたいに残った。 「べつにおれ、いいよ。こんなん、どうってことねえし、男だし、別に」 「男だとか女だとか関係なくねえ? 絡まれたらだれでもいやっしょ。じゃあ、俺が見たくないからそうしてよ」 「……うん、わかった」  嬉しかった。たまらなかった。でも、目を伏せると黒ずんだ床がちらりと表情を覗かせ、また底を見せつけてくる。いろんなひとの足音、おれの薄汚れた黒のVANSのスニーカー、行き交うひとの流れ、ありふれた「だれでも」のなかに、おれが紛れこむ余地なんてあるのだろうか。  刺身の盛り合わせと、酒蒸しと、おにぎりが運ばれてくる。青木はまず、刺身ではなくおにぎりを頬張った。 「なあ、なんでおにぎり?」 「ああ、昼間先輩にラインしたから」 「え?」 「先輩のおにぎり食いたくなって。だから」  がつがつ食べてしまうので、もう三分の一くらいの大きさになった。やめろ、と思った。特別なことじゃない、家飲みした翌日とか、その程度のことじゃないか。  青木とはこういう、些細な思い出がいっぱいある。カットするのは二ヶ月に一度くらいだけど、おそらく週に一度の頻度で会っている。店で飲むときもあれば互いの家で飲むこともあり、休日はほぼ合わなくても奇跡的に合った日には買いものにも行ったし、青木の車でドライブもした。  その間、青木が恋人の気配をにおわせることは一切なかった。金木犀のときだけだった。ほかにも恋人がいる期間は必ずあっただろうに、青木はおれの前では隠し事としてさえ扱わなかった。そんな隙すら見せない。とき折り流れで聞くことがあれば、以前のように別れたという言葉だけ。もしくは、彼女いるよ、のひと言。いるはずの恋人は、口から放らなければ青木とおれの間で生きた現実にもならない。秘密にもされないって要は、後ろめたさもないってことなんじゃないか。  青木にとってのおれは、いったいなんなんだろう。気遣われ、要所要所で思い出され、あんな衝撃的なことがあっても捨て置かれない。おれは青木から、罪悪感から、逃げたのに。 「先輩、この間のことだけど」 「うん」  ああ、とうとうきた。 「あのひととつき合ってんの?」  なるほど、さきにこうきたか。おれは首を振る。 「いや、ちがう」 「じゃあなんで?」  あんな場所にいたのか、ということだろう。単刀直入に尋ねられると、言い逃れがしづらい。青木は昔から相手を囲むように攻めてくる。さっきの酔っ払いしかり。 「つーかおまえさ、おれが男とあんなとこにいて引かねえの?」 「いやべつに。ひとの性的指向とか気になんねえし、好きなら相手の性別がなんであれセックスしたいでしょ」  体中が的になったような衝撃を受け、急激にざわめき出す。頭がじわじわ痺れる。こんなときに青木の、自分自身にしか従わない言いようは困る。変な期待を、寄せてしまう。 「……ていうか、青木は、なんであんなとこひとりで歩いてたわけ? すっげえびびった」  取り繕った軽口でごまかしながら、今だったら、と考えてしまう。女性のにおいを覗かせない、このときなら。  でも、でもおれは、青木の先輩でいなくちゃいけないんじゃないのか。そのほうが身のためなんじゃないか?  雨が降った、あの日の思い出を抱いて。 「俺は同僚と飲んだ帰り。あそこ近道だし」
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