雨をすぎれば

15/26
前へ
/28ページ
次へ
 青木は傍を歩いている店員に、ビールの追加を頼んだ。先輩は? と尋ねられたので、うなずいた。ほどなくして、生二杯、揚げ出し豆腐が運ばれた。 「べつに先輩の恋人だったらいいよ。でもあんた、いやがってただろ。だから気になってんの」 「え?」 「無理強いだったら許さないよ、俺」  さあっと一気に醒めた。かすかな希望に期待した横っ面を、思い切り叩かれた気分だった。料理から立ち上る湯気が、おれに現実を見せるように殴りかかってくる。  底、そこ、ソコ、どん底。  なるほど正論で攻めてくるわけだ。すばらしいね青木先生。その上、恋人だったらいいときた。無理強いだったら許さないって最高だね青木先生、清くて美しい恋愛でなければ性欲の解消は許されないわけだ、まぶしくてたまらないよ青木先生。  見込みゼロ、くたばれただれた性生活、それらを遠回しに教えてくれてありがとう。  ここにいる全員、今からまとめて呪ってやる。そこへ直れ。呪い殺してやる。ついでにあの酔っ払いたちも引きずりこんで八つ裂きの刑に処する。  八つ当たりもここまで到達したら正義だ。 「青木おまえさ、たとえばじゃあ恋人だったとして、そうじゃなかったとしても、おまえが関わることなの? ちがうじゃん。おまえだっておれに彼女の話なんてしなかったろ。それってさ、おれとその彼女さんが無関係だからだろ。じゃああれだ、今回のこともおまえには無関係ってことだ。つーかさ、こんなくっだらねえことで呼び出してんじゃねえよ」  おれがまくし立てているのを、青木はどんな表情で聞いているのだろう。うつむいているからわからない。でももういい。他人事のような正論と綺麗事は、どうせ反論の余地もない。存在まで否定された気がして息が詰まる。  だれも、北村さん以外、おれが青木を好きなことを知らない。おれがアプリで知り合った何人もの相手と寝たことも、あんあん喘いだことも、それが変態的な妄想を伴っていることも、だれも知らない。おれは偽名さんたちの前で美容師ではなくどこかの会社員だったし、永野瑞樹では当然なかった。 「教えてやるよ、聞いて驚け。あのひとマッチングアプリで知り合った相手。ほかにもいっぱいいるよ? たくさん寝てきた。おまえの言う、好きな相手じゃないんだよ。どうでもいい相手とのセックスだよ。どうだ参ったか、ざまあみろ」  超がつく少数派、ふつうじゃない、でも。  大勢のなかに紛れこむ架空の人物でいないと、マイノリティのなかのマイノリティは生きていけない。 「なにそれ」  青木がおれを、にらみ上げる。  だれも、だれひとりおれの心を知らない。おれ以外だれも、おれを知らない。わずかな心の一部でさえ他人に明け渡すのをためらうくせに、「永野瑞樹」を知っているのが自分だけなんて、ほんとうはとてもこわくて寂しい。 「おまえが聞いたからじゃん。それに答えただけだろ」 「そんなこと言ってんじゃねえよ」  どきりとした。青木の、喉からひりだすような低い声色を、はじめて聞いた。 「俺をあんたの無関係にしてんじゃねえよ」 「え?」 「あいつが恋人ってんならまあしょうがねえけど、そうじゃないのに先輩に触ってんの? すっげえムカつくんだけど」 「それって、どういう……」 「とにかくムカつくから今すぐやめろ、そんなもん」  テーブルに出したままの、スマホが鳴った。フリーメールだった。このアドレスに送って来るひとは、ひとりしかいない。わかりやすく動揺して、ごまかしようがなくてスマホを手に取った。慌ててポケットに隠すように戻すと、青木は舌打ちをする。こんなに苛立っているのも、はじめて見た。 「あいつだろ、こないだの」  ちがう、と言えばいいのに、今まで散々噓なんてついてきたのに、青木に対してやましいことだってひとつもないのに、答えられない。  どうしよう、ここにいられない、青木と対峙していたくない。 「ごめん、きょうは帰る」
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

302人が本棚に入れています
本棚に追加