雨をすぎれば

16/26
前へ
/28ページ
次へ
 いたたまれなくなり、万札を一枚テーブルに置いて立ち上がった。足が震えて、膝が一瞬崩れかける。青木に手首を取られ、勝手に振り払っていた。 「ごめん」  青木はおれを見上げ、目を見開き、鋭く見つめてくる。その瞳の強さに耐え切れず、足を出口に向かわせた。  わからないことだらけで、なにがわからないかもわからない。こんなときに、随分前の青木の言葉が過ぎる。  無意識も感情も、使うのは『私』という個人。  肌寒さのなかで無尽に惑う心は、無意識と感情のどっちなのだろう。寒さに身をすくめながら歩き出したとき、手首を引っ張られて体ごとがくんと崩れかけた。怪訝に思って振り向くと、息を切らした青木が立っている。  彼を見上げ、なにも言えないでいる。あ、と口を開けると、さきに声を出したのは青木だった。 「まだ話終わってねえよ、さきに帰るな」  直接心臓をぶっ叩かれた気分だ。開いた口は震え、足は動かず立ちすくむ。早鐘のように鳴る体が、おれを淵まで追い詰める。 「おれはもう、話すことなんか、ない……」 「俺にはある」  だからもう、青木のこういうところがいやなんだ。おれは自分の最大の弱点をさらした。打ち明けたくなんてなかった。  幻滅、軽蔑、あるいは同情か? どれもこれも勘弁してほしい。 「なあ先輩、あいつに会うの?」 「は?」 「これからまた、あの男に会うのかよ」  首を振れない、否定できない、居酒屋で届いたメールにでさえおれは、噓もつけなかった。でも。 「なんで青木に、そういうこと言われなきゃなんねえの? 言ったじゃんおれ、今まで何度も、こういうことしてきたんだって」  自分の意志で。  たとえだれかを青木に見立てていたところで、実質自慰行為だったとして、おれが何人もの男とセックスしてきたことは真実だ。ひとりひとり固有名詞があって顔も体もちがう、青木ではない別のひとと。 「だからさ、そんなんやめろっつってんだろ。逆に聞くけど、それって楽しい?」 「んなわけ……!」  そこまで言って唇を噛む。心の証明なんて他人にできない。言い訳に過ぎない。淫乱、セックス大好き、だれとでも寝る男、青木の前で永野瑞樹は、そんなもんでしかない。  通り過ぎるひとたちが、おれたちを振り返っていく。ケンカかー、なんて揶揄しながら、通り過ぎる。青木は小さく、うるせえな、と舌打ちをした。掴んだおれの手首を青木は引っ張り、大股で歩き出す。背後をついて行くだけで精一杯だった。  振りほどいてしまえばいい、思い切り振り払って、二度と指図すんな! と啖呵切ってしまえばいい。でもどうしても、青木の渇いた手のひらにおれは抗えない。睨まれても、怒鳴られても、侮られたとしたって、おれは自分の気持ちには抗えない。  青木が右折する。小さな路地をすこし歩き、ひとけがないところで手を離される。彼と向き合って目を見たとき、闇夜にたたずむせいで覗けないのがつらかった。 「話ってなんだよ。さっさと言え」  だから早く、おれを解放してほしい。  こわい。苦しい。つらい。高熱を出したあの日のようだ。このままならなさが一生続くんじゃないかという恐怖、行き止まり。ちらりと上を見やっても、この日は雨が降っていない。おれの真上に落ちてはくれない。  雨よ降れ。美しくなくていい、淀んだ塊でいい。今すぐ降れ。 「とにかくもう、ほかの男と寝るな」 「え?」 「あんま自分のこと貶めんなよ。俺がいやだ」  あたりは真っ暗で、遠いところにぽつんとある街灯のおかげでやっと、青木が夜闇に立っているのがわかる。黒い影が青木の顔にかかって、見上げても暗い。  もうたくさんだった。傍から見れば100パーセント正しい青木の理屈は、夢想に焦がれ続けたおれからしたら穴だらけの不正解。自分を貶めてなんていない、売ってもいない、想像に抱かれることさえ否定されたらもう、打つ手がない。 「そんな綺麗事、とっくに過ぎたあとだよ」
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

302人が本棚に入れています
本棚に追加