雨をすぎれば

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 抱いてくれよ、と思った。おまえが代わりに、体で、心で、このでこぼこで歪なおれを綺麗に直してくれよ。  真っ暗闇が落ちてくる。頭を持たれ、頬にかさついたものが触れ、なにかが降ってくる。冷たいものが唇に当たり、一瞬雨でも降ったかと目をまたたかせる。次第に温もる頬に、これが青木の手で、口づけられていると知る。一度離し、ついばむようにして落ちてくる。背筋から、悪寒に似たものがざわりと駆け上がる。腹部がじわじわ熱くなり、いやだと思った。反応する体が憎かった。  手のひらで包まれた頬をなぞられ、繰り返し唇が触れ、とろっとした熱くて柔い舌が入りこむ。  これがほしかった、ずっとほしかった、青木以外のだれとでも寝てきたなら、おれに気がない青木相手でもいいじゃないか。青木を想定してきたのだから、むしろこれはまたとないチャンスでは。  気持ちいい、もっとほしい、もっと。  背中をさすられ、直にほしくなった。この背も、首も、もっと触ってほしい。流される。もういいや。青木の本心なんて知れなくてもいい、だれの本心も、どうせ隠されたものだ。  不意に脳内がまたたく。先輩、とほがらかに呼ぶ青木の声が繰り返される。ささやかな微笑み、目が合って、くだらない話で笑い合ったこと。  我に返り、青木の体を押した。 「い、やだ。だめだって。いやだ」 「なんで」  もう一度引き寄せられ、今度は無理に口づけられる。  こんなシーン、何度も想像した。ちょっと乱暴な行為が好きな相手のときは、こんな青木もいいなあって妄想しながら抱かれてきた。いや、いや、と喘ぎつつ、ほんとうはすごくよかった。でも今はちがう。  抱きすくめられる腕から抜け出そうとあがき、青木の体を押す。目が慣れてきて、彼の表情がよくわかる。正気に戻ったのかわかりやすく動揺していて、自分の唇を指で触れて確かめていた。  後悔だけが無惨に残る表情なんて、知りたくなかった。 「なんでキスした?」 「……あ、いや、ごめん」 「謝れなんて言ってねえよ、なんでキスしたのかって聞いてんの。答えろ」  答えない青木に苛立ち、気づけば右手を振り上げ、青木の頬に向けて勢いよく下ろしていた。鈍い音が、狭い路地を包むコンクリートに反響する。おれの手のひらにも、痺れたような痛みが襲う。 「一発殴らせろてめえ! ぶっ飛ばしてやる!」 「いってえな! もう殴ってんじゃねえかよ!」  はたとして、勢いで殴っていた自分の手のひらを見た。なんの変哲もないこの手は、かすかに震えている。はじめてひとを殴ったせいか、はじめてキスをしたからか。  好きなひととの、はじめてのキス。 「おれが、だれとでも寝るからしたの?」  震える右手を、自分の左手で包んだ。こんなことじゃ癒されない自分のふがいなさに、嫌気が差した。 「謝ってほしいなんて、おれは言ってない。そういうつもりならぶっ殺す」  もう帰る。  立ち尽くす青木を横切り大通りに出ると、街灯だらけの明るい歩道に目がくらんだ。路地とは正反対なきらびやかさに身じろぎ、うろたえながらも行き交うひとたちに紛れた。好きな男の残り香なんて、あっさり消える。数メートル歩いて振り返るも、だれもいない。  くそ青木ばか青木くそったれ青木。  売り言葉に買い言葉だった。青木に悪意や、他意もなかったと思う。お互いに苛立っていたし、言葉も行動も収集もつかなかった。  でも、青木の前で「先輩」として生きると決めたおれのなけなしのプライド、それを自分自身で辱めることだけは許せなかった。  ポケットに入れていたスマホが震え、自然と取り出していた。一縷の望みに縋った。  ――たびたびすみません。北村です。  そういえば、すっかり忘れていた。ふーっと呼吸を落ち着け、メールを開いた。  ――そろそろケンカしたんじゃないですか? なんてね。助けてほしいでしょう?
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