雨をすぎれば

18/26
前へ
/28ページ
次へ
 思い切り舌打ちをかまして、スマホをアスファルトに叩きつけてやりたくなる。けれどこの足は立ち止まり、歩道に立ち尽くし、目は灯りが散らばる世間を見渡す。このなかの光の一部に、なんの気ないひと混みの一端に、縋りつきたい。  ほしくて望んで、知らない男に抱かれたいんじゃない。  北村さんにメールを返信するこの指で、ようやくおれは、世間のひとつに紛れた気がした。  待ち合わせの駅は、この時間まだひとが多い。南口にいるよう伝えられていたので、隅にもたれて待った。  改札口を往来するひとたちが、視界に入っては流れて消えた。そればかりをずっと追っていたら、次第に照準が合わなくなってくる。おれってなんでこんなところにいるんだろう。  北村さんからの一件目のメールは、くだんの食事についてだった。その後、例の苛立つメールが届いていた。すぐに返信するのも癪に障ったが、ムカつきます、と書いて送信してしまった。  ――なにがですか?  ――青木も、あんたも。  ――ね? だから言ったでしょ。ケンカしてませんかって。  ここでしばらく、返信しなかった。おれはおそらく、彼の好意を逆手に取っている。彼には甘えられると無意識に思っているから、こうして思わせぶりな文章を打つのだろうか。浅ましくて、自分にも苛立った。  ――とりあえず、メシでも行きましょう。クラフトビールがうまい店あるんです。  北村さんへの返信に、なにを書けばいいのか迷った。答えは決まっているからだ。それを記すのを、ためらっているだけだった。この、行き場のない後ろめたさはなんだろう。  ――ビールのせいにしちゃえばいいよ。  おれの惑いを、見透かしているみたいに続けて送信されてくる。崩れた敬語に自然と、おれの指は動いていた。必要だったのは理性で、断ることが適切だったのだと思う。だって、どうやっても彼に応えることはできない。でもそんなに強くはなれなくて、ほんのすこしほっとした。おれもそのへんにいる「ふつう」の人間と同じく、感情に左右されていることが。  あれから三日経っている。青木からの着信は、何度もあった。ラインはない。おれはそれを、すべて無視している。話すべき言葉はあるはずなのに、話すべき内容がわからない。おれはなにを成し遂げたいんだろう。  改札口から出て来るひとりに、見覚えがあった。彼は手を振っておれに近づいて来る。 「お待たせしました」  北村さんの笑顔は、いつも余裕が見えた。人生に於いて失敗とは無縁のような、あざとさのない優しさに近い微笑み。無垢なままなんて生きられないのに、このひとはどうして、鬱屈のにおいがしないのだろう。 「こんばんは」  ぺこりと頭を下げると、彼はもう歩き出した。「行きましょうか、近いんですよ」とおれを誘導していく。数歩下がってついて歩くおれに彼は振り向き、歩幅を合わされた。結局、隣に並んでしまった。対応にも慣れていて、さらに居心地が悪くなる。  北村さんのスーツは、この日もしゃんとしていた。ほんとうに営業らしく、身なりには気をかけていると以前コーヒーショップで聞いた。ぴしっとしたネイビーのスーツに、ネクタイはブルーとグリーンのストライプの配色がしゃれて見える。やんちゃに見えないぎりぎりの着こなしが、逆に好感が持てた。  ここです、と彼が立ち止まったのは路面店で、ビールの樽が目印のようにドアの脇に飾られてあった。足を踏み入れると、気取らない、がやがやした雰囲気に安堵する。身構えなくていい店でよかった。  北村さんについて二階に上がると、様々な声が飛び交っていた。だれがどんな会話をしても、だれも気にも留めない様子がうかがえる。彼はシュバルツを頼み、おれも同じものを注文した。料理は、北村さんに任せた。 「さて、青木さんとはどうなったんですか?」  にっこり笑われ、こちらは苦笑してしまう。 「ストレートに聞いてきますね」
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

302人が本棚に入れています
本棚に追加