雨をすぎれば

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「そりゃあそうでしょ、オレはあなたを狙ってるんですから。ライバルにはさっさと退場していただきたいんでね」 「ライバルって、青木は同じ土俵に上がってすらないでしょーよ」  呆れて言うと同時に、シュバルツが運ばれてきた。北村さんは、前菜の盛り合わせにガーリックシュリンプ、ワッフルチキン、有機野菜のサラダ、ピザとパスタならどっち? と尋ねられ、ピザと答えた。オレもピザの気分、と彼は笑う。生ハムとルッコラのピザを注文した。しゃれた名前が一列に並べられ、いつもの小汚い居酒屋とは大ちがいだと思った。  店員が去るのを確認してから、北村さんはおれに向き直した。 「土俵には最初から立ってると思いますよ。青木さんはすくなからず、オレに敵意を向けてた気がしますけどね」  それは単に、強要かどうかを危惧されたからだ。あとは、説明しがたい嫉妬と。先日の件をぼそぼそ口ごもりながら話せば、彼はうなずきながらもくつくつ笑っている。 「なにがおかしいんだよ」 「いやあ、だって」 「青木のあれは、ちがうと思います。嫉妬だって、種類がいろいろあるでしょ。青木のは、そういうのじゃない」 「惚気ですよね? 参ったなあ。勝ち目ゼロじゃないですか」  きまりが悪いままシュバルツに口をつけた。濃厚な味わいが、胃に染みていく。 「ナガノさん、もっと自覚したほうがいいですよ。ちゃんと愛されてるって」 「そりゃ、好かれてるとは、思ってますけど」 「でしょ?」  首を振った。淡彩な優しさや、正論にくるまれた謝罪なんていらなかった。傷ついたから怒ったんじゃない。過ちのひとつにされたから。だけど青木の唇から伝わった「欲求」に動揺もしていて、だったらこのままでもいたかった。 高熱を出したあの日のまま、くすんだ雨のにおいのなかでたたずんでいれば、もう怯えないですむ。 「青木には女性の恋人がいました。詳しい人数は知らないですけど、おれに対する感情と、彼女たちに対する思いはちがうでしょ? 踊らされるのは、いやなんです。なら、このままでいい」 「なるほどねー」  次々と料理が運ばれてくる。ピザはすこし時間がかかるとのことで、次はアルトを頼んでみた。シュバルツは甘みがある黒ビールだったので、ちょっとすっきりしたくなった。北村さんは、ゴールデンエールを頼んでいた。 「オレはね、青木さんがあなたを好きだと思ってるから、焦って口説いてるんですよ」 「北村さんが焦ってる? 嘘ですよね」 「はいはい決めつけない。われわれマイノリティは、先入観をなにより恐れてるでしょ?」  おれは口をつぐんだ。 「でも正直、あなたを奪うのは無理だろうなってわかってもいます。ねえナガノさん、うだうだ考えたり、執着に浸ったりするのって気持ちいいでしょ。楽しかったことを思い出して、だれかを本命に見立てるオナニーって最高なんじゃないですか?」  持っていたフォークが、皿にこすれて大きく鳴った。動揺が手に現れ、左手で胸もとのスウェットを握る。古着の、かさついた綿の手触りが、他人事みたいにひどく冷たい。 「なんで、そんなこと、わかるんですか?」 「え?」 「北村さんは余裕に見えます。だから焦ってるって言われても、否定したくなる」 「オレもあなたと同じだったからですよ。初恋のひとを思って、だれかを見立てて寝てきました。そのなかで、初恋のひとに似てるあなたに出会ったんです」  食事をする手が止まってしまい、いつの間にかフォークを置いていた。北村さんがグラスに手をつけたところで、おれもひと口飲んだ。すこしだけ残ったシュバルツは、ほんのりぬるまっていた。 「ただ残念ながらオレは、初恋のきみに脈ありとまではいきませんでした」  ふたつのビールと一緒に運ばれてきたピザは、湯気が立っていた。うまそう、と自然に口にしていて、彼も「うまいんですよこれが」と得意げだ。ひと口食べ、チーズが特に熱くて、舌が火傷しそうだった。 「北村さんは、おれの向こう側にだれかを見てるんですね」
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