雨をすぎれば

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 ぽとりと呟いた声は、すぐ闇夜に紛れる。歩道は街灯で明るいけれど、ひと気もあるのにほのかに静かだ。どうして夜の独り言って、その場にたたずむことなく暗闇に溶けるんだろう。日中のおしゃべりみたいに、ずっと居残ることはない気がする。  大股で歩き、すぐ近くの居酒屋を目指した。高校の後輩の青木とはそこで飲むことが多く、きょうも待ち合わせている。連絡の通り、待っているのだと思う。  店の引き戸から、男女がふたり連れ立って出て来た。すれちがったとき、アルコール臭がただよう。女性が男性を見上げ、隙間がないくらい寄り添って歩き出す。ふたりは談笑し、次の店に行くのか、あるいは。  あほらし、と首を振り、おれは店に入った。  らっしゃいやせー! と威勢のいい声の主に待ち合わせであることを伝えると、そのまま案内される。二、三メートル歩いたところで、先輩、と青木のよく通る低い声が聞こえた。 「お疲れー、こっち」  立ち去りかける男性スタッフに会釈したついでに、おれは生ビールを注文した。 「青木ごめん、遅くなった」 「あー、いいよいいよ、お疲れさん」  青木の向かいに座る。彼はやはり、さきに飲んでいたようだ。生ビールが半分になったジョッキ、枝豆、刺身の盛り合わせが並んでいる。青木が好むいつものメニューで、彼は枝豆をつまんで口に入れた。枝豆をぷちっと指でつぶす仕草が好きで、おれがいつも盗み見ているのを、青木は知らない。  マイノリティ、という言葉が、またおれを通り過ぎる。  タヨウセイ、とか、マイノリティ、という言葉はこわい。聞くたびに、胸がすくみ上がる。それをむやみやたらに擁護するひとも、「そちら側」が正しいと主張するひとも、苦手だ。「そちら側」が保護されるたび、まるで見張られているみたいに萎縮して、窮屈になる。  認めるとか認めないとかどうでもいい、放っておいてほしいだけ。さっきおれを横切った男女が周囲に紛れこんでいたみたいに。 「先輩、なに食う?」 「とりあえず青木の残りものと……、ああーなんか胃に優しいもん食いたい」 「お茶漬けとか?」 「いきなりシメかい」 「シメっつーか、先輩が好きなもん食えば?」  うーん、そうだなあ。メニューをぱらぱら捲りながら、青木のこういう、なにげない一言を気負いなく言えるところがいいなあと思う。  生ビールが運ばれてきた。さきに、かんぱい、とジョッキを合わせる。  たださ、好きなもん食えって言うけど、おれの好きなもんは、おれを好きにはならないんだろうな。  生ビールの苦味が、喉をじわじわ通過する。  青木一哉は、高校時代の後輩だ。  同じバスケ部で、おれが三年のとき彼は一年。ポジションがPGのおれとSGの彼は、練習中でも関わることが多かった。  青木は弱小バスケ部にはなかなか現れない貴重なセンスの持ち主で、入部当時から部員たちを圧倒した。けれど、傲慢さもスタンドプレーも一切なく、部員内でバカ話をすれば盛り上がって笑う幼さもあった。じゃあ隙だらけかと問われたらすこしちがうと思う。瞳には色めきがなく、渇いたイメージが強かった。浮ついた表情を見せないのがちょっとこわくて、線引きされているみたいだった。入りこむ余地がないのは、彼が自分自身にしか従わないからかもしれない。おれはそのギャップにたじろいだ。なのになぜか、一緒にいた。 「振り落とされても知らねえっすよー」  青木のチャリにニケツしながら、脅されても、青木が振り落とさないことも、スピードを上げて危険運転なんてしないことも、おれにはなんとなくわかった。なんかおかしいことあったっけ? と思うようなことも、青木となら楽しかった。  三年最後の地区予選では、惜しくも二回戦敗退。この「惜しくも」というのがすごいところで、三年の間では一回戦勝っただけでもすごくねえ? よく頑張った大金星、の案件だった。けれど青木はひとり、表情を険しくさせた。感情をあらわにした鋭い目を、はじめて見た。
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