雨をすぎれば

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「そうでもないです。あなたを気に入ってるのはたしかなので」 「嘘っぽいなあー」 「えー? 営業さきでは正直な北村で有名なんですけど」  はは、と他意なく笑った。北村さんは、チキンを取り分けてくれる。マスタードの辛みがちょうどよくて、また飲みたくなる。ワインもイケますよ、と教えてもらい、次はそれを注文しようと決める。まずは手元のアルトを飲んだ。甘みよりも爽やかな後味が効いて、これもおいしい。  この店に、青木と来たいと思う。おいしい食事を、分け合いたいと思う。でも彼から、どこで知ったかを尋ねられたら、ちょっと困るとも思った。嫉妬することを、わかっているのだと思う。それが意味するものを、青木の真意を知りたいと思った。 「そういえばナガノさんって、どんな漢字書くんですか? そろそろ教えてほしいな」  スマホに「永野瑞樹」と打って見せた。へえー、と彼は何度かうなずいた。 「じゃあ、坂本って偽名はてきとうにつけたんですか? まあ、たしかにどこでもありそうだし」  おれは首を振る。ほんとうは、意味があった。だれにも話していない、おれしか知らない秘密。 「おれ、miuって美容室でスタイリストしてるんです。店長が坂本美雨から取ったって言ってました」 「なるほど、そこからですか。ていうか永野さん美容師さんだったんだ。おしゃれだなって思ってたんです」  どうも、と答えると彼は、正直な北村なんで、とからから笑んだ。安らかな笑顔をするひとだと、今は思う。 「雨がね、降ってたんです。昔、高熱を出したことがあって、そのとき青木が雨に濡れながら来てくれました。優しかったし、大事にされて、幸せでした。告白しようって思ったんです。今なら大丈夫だって。でも金木犀の甘いにおいがして。女性のにおいだったと思います。だから、チノパン濡らして来てくれた、その美しい雨だけ大事にしたくて。そんで坂本。たいした話じゃないか、すみません」  北村さんは、かぶりを振った。そして、ビールグラスをぐいっとあおり、次はグラスワインを注文する。 「敵わないなあ。でもまあ、あなたが青木さんとうまくいかない可能性も願ってますよ」 「不吉なこと言わないでください」 「むしろ吉ですよ。いつでも相手するんで、フラれたら呼んでくださいね」 「だから不吉なこと言うなっつってんの!」 「まあ、フラれないでしょ。ていうか、永野さんって素が出るとかわいいですよね。やっぱり惜しいなあ」  はいはい、とあしらいつつ、おれもワインを注文した。運ばれてすぐ、互いにかちんと合わせる。ワイングラスに口をつけると、渋味が心地よかった。ありがとう、ぼそりと呟くと北村さんは、素知らぬ顔で残ったピザを頬張った。  北村さんと一緒にいると居心地が悪くなる理由も、彼から憂いたにおいがしない理由も、ようやくわかった。北村さんはもう、自分のなかで見切りをつけているからだ。自分の、やり切れない恋心に。  おれには逆立ちしても、できそうにない。  翌日の閉店後、スタッフルームで青木に電話をかけた。待つ時間は短かく、おれ、と出した声音は低かった。彼もまた同じように、うん、と答えた。 「先輩、なんで俺の電話無視してたの」 「だって、おまえが謝るからじゃん。そこに怒ってんの」  するすると言葉が出てきたことに、自分自身驚いている。気まずさなど通話口には存在しなくて、ああそうだった、と思い出した。些細なやり取りやくだらない会話で救われた瞬間が、おれと青木にはたくさんあった。 「その件で、ちゃんと話したいんだけど。なのに先輩が無視ばっかするからさー」 「うるせえ黙れ」  毒づくと、青木は笑っている。 「おれも青木に、言いたいことある」
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