雨をすぎれば

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「ドン引きっつーか、イタイっつーか」 「うるせえ知っとるわ!」 「てかさ、そんな昔から思ってくれてたの?」 「だからうるせえんだよ! その口塞ぐぞみじめ過ぎんだろーが!」  青木のこともなげな口調に怒鳴ると同時に、顔も覚えていない相手とのセックスが蘇る。そのときだけ気持ちよくて、最後必ずみじめになるものが。 「いやごめん、嬉しいっつーか、でもムカつくっつーか。ああーやっぱムカつくな。俺が最初に、先輩とセックスしたかったし」 「は?」  手を止め、青木を見る。彼はむっすり口をつぐんでから、ぶっきらぼうに声を投げてくる。 「俺以外の何人の男が先輩に触ったんだろ、腹立つな」 「なにそれ、嫉妬じゃん」 「だから言ってんでしょーが」 「好きなんじゃん、それ」 「だーかーら、好きだっつってんだろ。わかんねえかな」 「わかんねえよ……」  わかるわけない。こんなシーン、何度想像したと思ってる、こういう場面を何度も妄想して、夢に出ろと願ったと思ってる、そうして絶望してきたんだ。夢にも見ないし現実にはもっと起きないって幾度となく。打ちひしがれて泣いて、でもおまえから連絡がきたら飛びついて、素知らぬ顔で「きょう空いてるよ」と返信した。そのくせ、アプリで知り合った男性とも寝た。  はぐれた自分をひと混みに紛れさせ、先輩として生きることでかろうじて尊厳を保たせてきた。崖の淵ぎりぎりに立っていたはずの末路がここに至るなんて、信じられるはずがなかった。 「先輩、好きだよ」 「だっておまえ、軽いよ」  おれは重い。重すぎる。 「軽いか重いかなんて、そんなん証明しようがねえな。まあどうでもいいや、そのへんの想像は勝手にしてよ」 「なんだよ、怒んなよ」 「要は、今までのぶん先輩を幸せにすればいいんでしょ?」 「強引すぎる」 「はは、じゃあどうしたいの。さっきの嘘でしたって言えば満足?」  くすんだ雨と金木犀のにおいを嗅いだあの日、おれはどん底に落ちたんだ。でも、抱きしめられて幸せだった。スタイリストになって約束を果たせた瞬間も同じ。青木の恋人を羨みながら、でもすべてがまばゆくて、きらきらして見えた。今は逆に、一秒さきの光を掴みかけているのに、外は真っ暗だ。  こわいんだ、ただ。  もう、カットは終わった。あとは、シャンプーするだけ。 「マイノリティだよ、どうすんの」 「先輩は、そういうのクソだと思ってると思ってた」 「クソだよ嫌いだよふつうってなんなんだよ」  でも。と続けると青木は、うん、と答える。おれの好きな、どこにも属さない低い声で。 「そのへんの恋人同士とはちがう。青木だって気ぃ使うだろうし、もしいつか、ほかにだれか……」  心変わりされたら、女性がいいって言われたら、裏切りに値しない行動なのに責めてしまったら。もしも青木を、恨んでしまったら。 「そんなん、同性でも異性でも同じじゃねえの? 気遣うのも相手がだれであれ一緒。ほれ、外見てみ? あのひとたちの関係性だって俺らが預かり知ることじゃねえっしょ」  窓の向こうの、外を見る。店の前を、いろんなひとたちが通り過ぎる。 「先輩ずっと前に言ってたろ、家族だってはじまりは他人同士の繋がりだって。俺とあんただって他人だ。マイノリティとかそういうんじゃなくて、好きなだけだよ」  青木はどんなときでも、関係を取り繕うための嘘はつかなかった。だれかに自分の価値観を押しつけることもしなかった。いつだって、自分を騙すことはしなかった。  だったらもう、疑わなくていい? 「先輩は世間に優しくなくていいし、お茶漬けを締めに食べなくていい、頑張るひとだって言ったのは俺だけど、もう頑張らなくていいよ」  喉の奥が苦しくなる。瞼の裏が熱くなって、目を伏せた。一度はなをすすり、シザーとコームをケースに戻してから、ごまかすように青木の髪をぐしゃぐしゃにして毛を払う。 「シャンプーする!」 「おい、答えまだ聞いてない」
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