雨をすぎれば

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 もう十年だ。それがどれだけ長い年月だったか、今から存分に思い知れ。 「青木のこと、ずっと好きだった」  青木は、こぼれるみたいにはにかんだ。希望と、ちょっとだけ照れくささを滲ませて。  窓の向こうの雨も、どうやら店じまいのようだ。美しい雨も、湿度でけぶった空気も、もうない。  あしたは、きっと晴れる。 「おれ、死ぬかもしれん……」  おれの部屋にいる青木の背に呟く。 「死ぬならベッドの上にしよーぜ」  揶揄にすらならない台詞に含みがあり過ぎて、ほんとうの意味で開いた口が塞がらない。というよりすでに今、この状況で青木がおれの部屋にいることが異常事態だ。いつもの宅飲みレベルなんて、とうに越えている。  カットを終えたあと店を出て、店の近所にあるいつもの居酒屋でちょっと飲んで、じゃあお開きというところで、「先輩ん家行っていい?」ときたのだ。  硬直して立ち尽くしていると、彼はすたすた歩きはじめていた。青木、と後を追うと、手を取られる。驚いて振り払った。 「やだった?」 かすかにしゅんとされ、今度はがつんと殴られた気がした。  ずっと、心臓がうるさかった。このままじゃ、ずっとこれが続いたら、心臓発作とか心筋梗塞とか高血圧とか高血糖とか糖尿病とか、いずれ心身に支障をきたすんじゃないか。 「青木は、おれを、どうする気、なのでしょうか……」  確認作業と、一応の保険として尋ねる。彼はおれを見て吹き出した。 「そりゃあんた、えろいことするに決まってんじゃん」 「無理!」  即答した。青木は、けたけた笑っている。この部屋はワンルームなので、テーブルとテレビとベッドくらいしかない。青木とおれが立っているのは、あろうことかベッド脇だった。 「でもまあ、ほんとうにいやならしねえよ。先輩がいやがることはしない」  彼がベッドに腰かけると、スプリングがほのかに揺れた。おれはごろごろするのが好きだから、広くて寝心地のいいベッドで眠りたくて、これだけは奮発した。そのベッドに青木が座っている。落ち着き払った様子の彼を上から眺めたとき、切りたての髪が目についた。  おれがさっき切ったんだよな、これって現実なんだよな、朝になってこのベッドで目覚めたとき、ああやっぱり夢だったかって、諦観しつつも夢の儚さに焦がれて泣くってないよな。  青木がおれを見上げた。その輪郭はきちんとかたちを描いていて、おぼろげではない。隣に座ってベッドの座り心地をたしかめると、普段と変わらないさらりとした綿の柔らかさがあった。まごうことなき現実。  じっと青木を見返しながら、この片思いとずいぶん長くつき合ってきたことを思った。いろんなことがあって、いろんな話をした。苦しかったし嘆いたし恋しかった。憎たらしかったし羨んだし愛しかった。  愛なんて、とうに越えてる。 「先輩がいやがることはしたくないけど、俺がぜんぶ上書きしたい。とくにあいつとかあいつとかあいつとか」  口ぶりが、拗ねた子どもみたいでおかしくなる。 「はは、北村さんのこと? あのひといいひとだったよ」 「は? すげえムカつく。結局どうなったんだよ」  青木の手が伸びてきて、掬うように抱きしめられた。それだけで下腹部と、瞼の裏が熱くなる。じゅんとして、火傷みたいにじくじくして、痛いと思った。体も、心も。 「最初から断ってるし。あのひと、おれが青木を好きなのも、知ってるし……」  夢見心地ってこれだ。きっとそうだ。ふわふわして、綿飴よりもっと甘くて、触るとねばねばして、でも痕が残りそうなほど痛い。身に覚えのあるこの感覚。焦がれて、苦しい。たとえ夢であっても醒めても現実でも、同じだということ。抱き締められることでできる傷痕と愛情の境目は、どこなんだろう。 「先輩に昔、感情と無意識の話したの、覚えてる?」  うなずいた。 「無意識の嫉妬は、先輩をだれにも渡したくないっていう俺の成し遂げたいことだったんだよな。こういうのはじめてで、自分が変わったっつーか、知った気がする」 「なにを?」
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