雨をすぎれば

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 青木は体を離し、今度は顔が近づいてくる。指先が伸びる。触れたそこは渇いていて、頬を手のひらで撫でられると感極まる。追い続けた体が、今ここにある。 「もうずっと、先輩を好きだったんだって」 「遅い、おまえ遅いんだよ」  ごめんね、じゃなくて、青木はありがとうと言った。俺とずっと一緒にいてくれてありがとう、と。頬を撫でていた手が背中に伝っていき、抱きすくめられて涙腺が緩んだ。腕の力が強くなり、青木のにおいが満ちて、いっぱいになった。  どこかで聞いたことがある。触れることと愛しいことが混じり合って重なったとき、ひとの体から涙が生まれるのだと。昔の漫画だったか、お客さんの話だったか、それは思い出せない。ほんとうだった。青木に触れて、愛しくて、近づきたかったにおいを間近に感じたとき、どうしようもなくなった。  痛くて息苦しいのは、恋しいかぎり変わらないんだ。 「先輩、してもいい?」 「うん」 「先輩、好き」 「うん、おれも好き。青木のこと、ずっと好きだった」 「やべえー、ずるい先輩」  もう一度強く抱きしめられ、それから唇が触れた。最初は触れるだけで、ためらうことなく舌が入ってきた。この唇も舌も、同時に服を脱がしていく手さばきも、数えきれないほど想像してきた。青木ならこんなふうに口づけ、青木ならこんなふうに脱がして、青木ならこんなふうに触れていく。偽名さん相手に実践までしてきた。  目を閉じるのが、こわくなった。万が一青木じゃなく偽名さんのだれかだったり夢の続きだったらと思うと、果てない闇にさらわれてしまいそうでこわい。だから青木をずっと見ていたくて、おれは目を開けたままにした。口づけも所作も想像とは比べものにならないほど甘美なもので、ベッドに溺れてしまいそうだ。 「なんでずっと見てんの? 恥ずかしいんですけど」 「夢だったらどうしようってちょっとこわくて、目ぇ開けてた」 「すげえね、そんなかわいいこと言っちゃうんだね」 「かわいくねえよ、ばかにすんな!」 「えー? 褒めてるんですけど」  おれは青木が、おれの体を見たとたん、萎えるんじゃないかと危惧した。けれどそれは杞憂に過ぎず、きちんと反応していた。おれに触れてくる手のひらの動きも、悦ぶ箇所をいじるときも、はっきりした衝動が見えて嬉しかった。声を出せずにためらっていても、口のなかに指を施して丁寧に開け、我慢しないように促された。望んでいた指を丹念に舐めると、青木は喜んだ。だれかにしたの? と問いかけられた。首を振って否定した。首に手を回し、青木以外にはしない、と答えた。  もういい、と思った。恥ずかしいことなんて、どこにもないじゃないか。こんなに気持ちいいのも、おれを抱く青木に欲情を抱くのも、相手を思っているからだ。好きだからだ。  好きなひととするセックスって、きっと心そのものを無防備にさらして互いに受け入れることだ。心に直接触れられるのはこわいけど、相手が青木だからこそ、臆病にも大胆にもなる。 「気持ちいい? 大丈夫?」  慣れていないからか、青木はおれに聞く。挿れて動かしながら、事前に指で探られて善がった箇所を突きながら、おれに聞く。ときどきわざと外しながら、引っ搔くように動かされる行為に焦らされ、それが気持ちよすぎてひっきりなしに喘いで、おれの体の上で呼吸をみだす青木にみだされ、答えられないほどいいのに、それでも青木はおれを逃してくれない。 「あ、あ、あ、青木、あおき」 「先輩、声かわいい。やべ、いきそう」  だらしなく開いたおれの口の端に、青木が口づける。頬にも、目にも、額にも。唾液も浮いた汗も舌で掬って、それから深く口づける。 彼の顔を見て、精一杯の呼吸と欲を覗いたとき、弾けそうになる。歯を食いしばって耐える。動かされ、もう無理、と思う。 「うん、うん、おれもきもちいい、もうむり、もうでる」  脳内妄想で何度も呟いた言葉を、とうとう現実で口にした。   おれは悔いた。今までのことを悔いた。名前も知らない何人ものだれかさんに抱かれたことを悔やんだ。俯瞰するおれが、上から見下ろしてくる。仕方のないことだ青木は当時おまえを好きじゃなかったんだから、と。それでもいやだった。青木だけに体を渡したかった。  この心の変化さえ、たしかに自分の一部だ。この幸せがなければ、知ることはなかった。変わったんじゃない、知ったんだ。  彼の体を抱きしめ、射精に我が身を震わせたとき、この瞬間の幸福を奇跡だと思った。
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