まぎれる

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まぎれる

 ちょっと遅くなります。ごめん。  という連絡は、ことのほかぞっとするものがある。延着の報告はこの日がはじめてというわけではもちろんないが、心臓が一瞬だけ、ひゅっとすくむ。飲んでいるホワイトモカの、甘さの中にほんのりひそむ苦味だけを味わうような。  おれは、待ち合わせ場所に指定されたスタバの窓際の席に座っていた。夜の街はきょうも、輝く街灯の下を歩くひとたちの往来が忙しい。次第に定まらなくなる視点に、幻覚でも見せられているような気分になる。  カップから手のひらに伝うぬくもりがほんのり熱くて、一旦カップを置いて持ち直した。口をつけると、まだ熱かった。あち、とつぶやいたひと言は店内の空調にまぎれる。だれもが、気にも留めなかった。  待ち合わせの時間に青木が遅れている。その事実は、おれを鬱々とさせた。時間に遅れる、ということは気にならない。そんなことより、途中で運命の出会いに遭遇したとか、たまたまハンカチを落とした女性に惹かれたとか、要は運命の歯車が狂った的なファンタジーが起きてやしないか、と考えることが憂鬱だった。  ――やっぱ俺先輩より女の子がいーや。  とかなんとか、いずれ最悪の事態が起きてしまうんじゃなかろうか。そんな妄想が平気でできるほど、十年の片思いというものは想像力を無限に培わせる。  大きな窓の向こうで、小走りする男性が見える。ファーつきの、電球色の下でもわかるカーキのモッズコートを着た男だった。彼は立ち止まって、おれに気づくと一度手を振り、店内に入る。青木だった。どうやらきょう、彼に運命の出会いはおとずれなかったらしい。  青木は店内で注文したものを受け取り、おれの前に座った。 「ごめん、遅くなった」  ううんいいよ、と首を振る。青木はモッズコートを脱ぎ、下に置いてある籠におざなりに置いた。 「自主練してる生徒につき合ってたらさ、時間食っちまって」 「青木先生働くねー」 「そうなんっすよ、意外とねー、ちゃんと先生やってんの」 「おれ未だに青木が先生やってんのって想像つかないわ」 「まあねー、公民だしね。基本てきとうだよ。寝てる生徒も多いし、つーか寝るなっつの」  青木がカップに口をつける。苦そうな、ブラックコーヒーのにおいが湯気と共にただよった。 「寝てる生徒どうすんの? 放置?」 「まさか、教科書の角でこつんですよ。つってもまあ、最近厳しいしな。体罰がなんちゃらって。俺は教頭の説教完無視してっけど」 「やべえじゃん、青木先生辞職案件じゃん」 「そしたら先輩養ってね」 「ばあーっか、働け」  からから子どもみたいに笑う青木はなんとなく、生徒からも人気がある気がした。てきとう、なんて言いながら、授業もわかりやすく教えている気がしてならないのは、惚れた欲目かもしれない。  飾りっけがない青木だから、同僚でも、あるいは生徒でも、好意を寄せられてもおかしくない。わざわざおれという同性と、こうして向き合わなくても。  こわっ、と思ったのを気取られないよう、カップに口をつけた。ホワイトモカは、飲みやすい温かさになっていた。 「あーそうだ、先輩」  どきりとした。はっとして顔を上げると、青木は首を傾げる。なに? と問いかけられ、なんでも、と返した。運命の出会い、おれの前からいなくなる瞬間、そういう、底に落とされる日がやってきたらどうしよう。 「メシだけど、電車で調べててさ」 「え、ふつうに居酒屋でいいじゃん。このへんの……」  あたりを見渡した。駅前のスタバを出たら、店なんていくらでもある。 「あんたね、一応夜のお食事ですよ。ほれ見てみ? 行きたい店ない?」  青木はスマホをおれに見せる。ちょっと腰を浮かせて覗きこむと、駅歩はありそうだが、雰囲気のいい店がずらりと並んでいる。品のよさそうなイタリアンや、隠れ家っぽい気軽な装いのフレンチ、あまりにベタで吹き出した。 「は? なんで笑う」 「いやだってさ、ただメシ食うだけだろ。しかも飲むし。はは! ウケる!」  ツボにハマって腹を抱えると、青木はむっすり口をつぐんだ。
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